1.傷ついた民が集う街


 ユルドゥズと呼ばれるすたれた街の中を、少女が歩いていた。きりっとした雰囲気をまといながらも、まだ顔に少しあどけなさが残る少女である。 
 左耳に揺れる紫の大きなしずく型のイヤリングが、道行く人の目を引いている。しかしそれ以外の身なりは貧相で、その若さには似合っていなかった。
 また、細身の体をしている割に、少女の二本の足には程良い筋肉がついていた。長い道のりを歩んできた、何よりもの証である。
 少女――メレキは旅人なのだ。 
 旅人には、大きく分けて二つある。
 一つは、とにかく旅することが好きで、旅こそ生き甲斐だと感じている者たち。
 そしてもう一つは、帰る場所がなく、向かう場所もないために、放浪することを余儀なくされている者たち。
 十七歳になったばかりのメレキは、後者に属する旅人だった。
 一年前に、自分を可愛がってくれた最後の人を亡くして以来、彷徨さまよい惑うだけの日々が続いていた。 その間に、胸の辺りまで届く金髪のなめらかさが、どれだけ魅力を欠いたことだろう。 些細ささいなことにも感動することが出来た豊かな感情が、どれだけ乏しいものになったことだろう。 黒い瞳だけは一年前と変わらずにぱっちりとしていたが、暗く沈んだ眼差しを覚えた所為せいで、今は可愛らしさよりも不気味さの方が目立っていた。
 しかし、それを残念がる者はなく、本人でさえそれに気が付かないのである。  
 このまま無駄に命を消費するだけの日々が続くのなら、何処に生き続ける価値があろうか――時折ぼんやりとそう考えながらも、メレキは足を前へ、前へと運んでいく。立ち止まること、それはメレキのような旅人にとって死を意味するからだ。生きる価値はないかもしれないが、好んで死ぬ理由もない。メレキにとっては、それだけが自分の動力源なのである。 
 日没が近づき、人々は家路を急ぐ。それをうとましく、同時に羨ましく思いながら、メレキは今夜の寝床を探した。 身を切るような冷たい風が少しでも防げるのなら、何処だって文句は言えまい。投げやりな気持ちで、一番手前にあった路地に入る。
 汚い路地だ。酒の瓶やら、野良猫の死骸やら、見ていて気を害するようなものがごろごろと転がっている。殺伐としたその光景は、まるで滅びの過程を具現化したようだった。メレキは足下だけを見て、つまずかないように気を配る。 少し歩くと、そういった障害物もだんだんとなくなっていった。それどころか――

 不意に、視界が開けた。

 驚いて顔を上げる。確かに路地を歩いていたのに。メレキはいつの間にか、雑踏の真ん中に立っていた。それも、さっきよりも賑やかな見知らぬ場所である。
 何処を歩いているかも分からないほど、自分は気が狂ってしまったのか。毎日を抜け殻のように過ごしていたから、なるほど、それは否定できないかもしれない。 だが、気が狂った人間は、自分が狂っていると自覚できるものなのだろうか。
 半ば戸惑う気持ちでたたずんでいると、メレキの前に立ち止まる者がいた。赤みがかった茶色い髪にバンダナを巻いた、明るい印象の少女である。 メレキと同い年か、少し上だろう。両手に大きな買い物袋をげている。
「お客さんかい?」
「客…?」
「あたしの店の前に立ってるから。違うの?」
 メレキは少女の後ろのログハウスのような建物に目をやる。古びた看板に刻まれた文字は、ここが宿であることを示していた。
 しかし、この街にこんな場所があっただろうか。旅人といえど、メレキはこの街にもう一週間ほど滞在していた。 地図はなくても、何処に何があるか分かってきた頃である。それなのに、この場所にはさっぱり見覚えがない。宿だけではなく、ここから見える風景全てに。
「ここは何処。ユルドゥズの街じゃない」
 覚えず、メレキは少女にそう問うていた。
「ユルドゥズ? アクシャムの国の、ユルドゥズのこと?」
「うん」
 メレキが頷くと少女は、なるほどね、と呟いた。
「つまり、新顔さんってことだ。ここは、ユルドゥズじゃない。それどころか、アクシャムの国でもないんだ。ここは『シャングリ・ラ』。傷ついた者たちの集う街」
「『シャングリ・ラ』…?」
 それは、『理想郷』を意味する言葉。メレキには聞き覚えのない地名だ。
「おいで、新顔さん。こんな所にいたって仕方ないだろ? 中で話をしようよ」
 迷ったが、少女の言う通りここに立ちすくんでいてもどうにもならない。 素直に少女の後に続いて、宿に足を踏み入れる。少女に敵意や警戒心が全く感じられなかったのも、そうすることにした理由の一つだ。普通の人ならば、金も仕事も持たない旅人と鉢合わせただけでもいい顔はしない。
 宿の中は少し薄暗い気もするが、温かい明かりに包まれていて、優しい木の香りがした。
 メレキはざっと中を見渡す。バーのカウンターのような席に三人の客が座り、談話したり、新聞を読んだりしていた。客室へのドアは五枚だけで、あとは二階への階段しかない。小さな宿である。
「今帰ったよ。これから夕食の準備するから」
 少女がカウンターの中に入って買い物袋を置くと、それまで新聞を読んでいた中年の男が、不満そうに少女を見上げた。
「またか。アンタはいつもそうなんだから。買い物ぐらい昼間のうちに済ませとけって」
「うるさいわね。人手が足りないの!」
 少女はいらいらと言い、調理道具を用意しながら、はっと思い出したようにメレキに目をやる。
「あ、好きな所に座ってて」
 少女の言葉に、三人の客が一斉にメレキに注目した。
「ん? 今日は珍しい客が来てるな。宿無しの女の子なんて、そうそういるもんじゃねぇや」
 先程少女に文句を付けた男が、物珍しそうにメレキを眺める。
「宿無しじゃないよ。今日、初めてここに来た新顔さんさ」
「なるほど。ここはいい所だぜ、お嬢ちゃん。戦争もねぇし、平和だ」
 新聞を読んでいる男の隣で、禿頭の男が言った。
「戦争が、ない?」
 思わずメレキが問い返すと、男は強く頷く。
「おう。その通りさ。――お嬢ちゃんの時代でも、まだアクシャムとサバハが睨み合っているのかい?」
「ちょっと待ちなって。この子、まだここに来たばっかりで何にも分かってないんだから。混乱しちまうよ」
 野菜を切りながら、少女が口を挟む。実際その通りだった。『お嬢ちゃんの時代でも』なんて、まるでメレキが別の時空から来たような言い方だ。意味が分からない。
「そうだ、名前をまだ聞いてなかったね。あたしはアモル・ホルデ。あんたは何て言うの?」
 アモルの問いに、メレキはまごついた。名前を訊かれるなんていつ以来だろう。旅人に名前は要らないのだ。少し緊張しながら、メレキは久し振りに自分の名前を発音した。
「メレキ。メレキ・メイヴェ」
「メレキ?」
 それまで黙っていた三人目の客が聞き返す。黒髪に青い目をした青年だ。他の二人よりはずっと若い。それでも、メレキよりは少し年上に思われた。
「なんだい、エウリ。この子を知ってるの?」
「いや、知り合いに同じ名前の奴がいたもんだから」
 確かに、アクシャムではメレキという名前はポピュラーだ。メレキが生まれた村にも、自分の他に三人はいたと思う。
「そいつ、どうしたかな。やっぱり敵の攻撃にやられて死んじまったのかな。俺の知らない所でさ」
「エウリ。過去を思い出さないのがここのルールだろ?」 
 禿頭の男がぴしゃりと言う。はいはいそうでしたね、と適当に流して、エウリはビールのジョッキを口に運んだ。
「また飲んでるの? お酒に強いからって、まったく…」
 ぶつぶつ言いながら、アモルはカウンター越しに、メレキに紅茶の入ったカップを渡す。
「客がうるさくて悪いね。夕食にするから、話はその後でいい?」
「…うん」
 メレキはカップを受け取って、冷えた指先を温めた。

            ***

 食事が終わると、メレキは二階のアモルの部屋へといざなわれた。綺麗に整った、清潔感のある部屋だ。 シンプルだが、何気なく飾られたぬいぐるみがアモルの女の子らしさをかもし出している。
 アモルはメレキを小さな椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛けた。
「まずはここが何処なのかって、ちゃんと話すべきかしらね」
「ここは、サバハなの?」
 間髪をれず、メレキは訊ねる。サバハというのは、メレキの暮らす国、アクシャムの隣国――そして、敵国だ。
「いや。確かにここはアクシャムじゃないって言ったけど、ここはサバハでも、その他の国でもないんだ。ぴったりの言葉がないけど、あたしたちは『幻想都市』って呼ぶことにしてる」
「幻想?」
「そう。地図にない都市なんだ。何処かの魔女が創ったって、そう言われてる」
 魔女――それは生まれながらにして超自然的な力、すなわち魔力を持つ者たちの総称である。『魔女』と呼ぶ習慣があるが、実際は男の方が多いと聞いている。
 アクシャムでは、そのような魔力を持つ者たちを中心に国が動かされているのだ。その中でも、最も強力な魔力を持つのが王家である。
「でも、魔女は何のためにここを創ったの?」
 魔女の魔力は多様だ。都市を一つ生んでしまう力を持つ者がいてもおかしくはない。しかし、わざわざこんな都市を創ろうとした理由が分からなかった。
「きっと、人に逃げ場を与えるためかな。さっき言った通り、ここには傷ついた人たちが集まってくるんだ。傷って言っても、目に見えない傷さ。 戦争で家族を亡くして行き場を失った人なんかが、ここにふらっと迷い込んで来る。傷を癒す光を求めてね」
「傷を癒す、光…」
「あんたもここに来たからには、何か思い当たる節があるんじゃないの?」
 メレキは瞳を伏せた。
 思い当たる節がないと言ったら、それは嘘だ。だが、本当にそれが自分の『傷』かどうかと問われたら、答えられない。
「…やっぱりあんたの時代でも続いてるの? 戦争は」
 黙り込んでいると、不意にアモルが訊ねてきた。さっきの男と同じ質問だ。メレキは小さく首を傾げた。
「あんたの時代では、って?」
「ああ、それは、ここでは時間が止まってるから。詳しく言うと、ここには現実世界のような時間の概念がないんだ。 例えば、あたしは18歳でここに来た。もうここに来て3年経つけど、やっぱり今も18歳だ。ちなみに、ヴェルム歴1338年のこと」
 メレキの時代はヴェルム歴1341年だから、本来ならアモルは21歳になっているはずである。しかしメレキの目の前にいるアモルは、どう見ても自分と同い年くらいにしか見えなかった。
 どうやら、時間が止まっているという話は本当らしい。
 幻想都市と呼ばれる不思議な場所に迷い込んでしまえば、時が止まっているという不自然なことにも疑いの心は芽生えなかった。 無感動になってしまった心では、むしろそれが当然なのかもしれない。
「それで、どうなの? あんたの時代では終わってる? 戦争」
「うん。2年前に……1339年に、一応終わってる。…アクシャムが負けて」
「そう。それでもあんたみたいな人がここに来るってことは、平和にはなってないんだね」
 メレキは小さく頷いた。
「国の中心で何が起こっているのか、詳しいことは分からない。私、浮浪者だから」
 アクシャムが負けたのは確かなのだが、勝ったサバハの国王が当然病死してしまい、両国とも混乱しているのだ。メレキのように行き場をなくした人々への支援もない。 国は疲弊し、荒れ放題である。メレキを大切にしてくれた最後の人も、直接ではないにしても、元を辿れば戦争の所為で死んだ。終戦は迎えていたにも関わらずに、である。
「ま、とにかく、ここに来られたんだから安心しな。ここには戦争なんてないから」
 深く考え込むメレキに、アモルが明るく声をかけた。
「シャングリ・ラでは、過去なんて無意味なんだ。だからここじゃ、相手の生い立ちについて深く訊くのは禁忌タブーだよ。それさえ守ってれば、楽しく暮らせるからさ」
「…うん」
 微かに首を縦に動かしてみせると、アモルは嬉しそうに笑った。
「ところでさ、話は変わるんだけど…」
「何?」
 言いにくそうに切り出したアモルは、躊躇ためらう素振りを見せてから、意を決したように口を開いた。
「メレキ。あんた、ここで働かない? 住み込みで」
 予想外のことにメレキは言葉を失い、きょとんとする。もしかしたら、最初からこれが目的だったのではなかろうか。
「実は、最近ここで働いてた子がやめちゃってさ。人手が足りなくて困ってるんだ。あんた、行く場所ないんでしょ? 勿論もちろん、ただ働きじゃない。ちゃんとお手当は出すし、食事も身の回りのことも、全部面倒見てあげる。だから、さ。困ってる者どうし、手と手を取り合って…」
「……。分かった。いいよ」
「えっ!?」
 二つ返事で引き受けたメレキに、今度はアモルがきょとんとする番だ。
「い、いいのかい!?」
 アモルの表情が、驚愕から歓喜に変わっていく。
 断る理由はなかった。未知の世界を手探りで歩こうなんて、そっちの方が遥かに愚かだ。だったら、素直に甘えさせてもらった方がいい――メレキはそう考えただけなのだ。 だから、アモルの大袈裟な喜びように戸惑う。
「ありがとう! 助かるよ!」
 小躍りでもしそうな勢いのアモル。メレキはその様子を、怪訝けげんに思いながら見ていた。
 たたじっと、見つめていた。

            ***
 
 メレキにあてがわれた部屋は、アモルの部屋の隣だった。最後の雇い人が出ていってからそのままだという話だが、掃除くらいはしていてくれたらしい。家具もほとんどほこりをかぶっていなかったし、ベッドもふかふかしている。
 シャワーを浴び終えたメレキは、まだ乾ききっていない髪を布団の上に投げ出した。ふわりと巻き上がる、石鹸の香り。久し振りだ。 最後に髪を洗ったのは果たしていつだっただろうかと、ぼんやり考える。
「メレキ、いいかい?」
 ノックの音と共に、アモルの声が聞こえた。
「どうぞ」
 がちゃりとドアが開き、アモルが入ってくる。
「明かりもつけてないの? ベッドの横に、ランプがあるよ」
 毎晩路上で眠るような生活をしていたのだ。夜は暗いままであったほうが落ち着く。だが、アモルにそんなメレキの気持ちなど分かるはずもない。アモルはベッドに横たわったままのメレキに近づくと、指輪をはめた細長い指を、ベッド脇のテーブルに据えられたランプに伸ばして、かちりとスイッチを入れた。
「忘れ物だよ。シャワー室に置いてあった」
 メレキは体を起こし、アモルが差し出してきたものに目をやった。 
 紫色のイヤリングだ。――どきりとした。
「綺麗な色だね。明るい紫色…すみれ色っていうの? でもこれ、片方しかないんだ。せっかくだから明日、安いイヤリングを売ってるお店を教えてあげる。安いって言っても質は良くて――」
 メレキは最早もはや、アモルの話など聞いていない。
「返して!」
「えっ!?」
 メレキは素早くアモルの手からイヤリングをひったくった。
 アモルはイヤリングを盗んだわけではない。ただ、親切に届けてくれただけなのだ。分かっているのに、イヤリングに他人の手が触れたことが許せなかった。
 反射的に、メレキはぎゅっとイヤリングを胸に抱く。アモルは目をしばたかせ、言葉をなくして立ち尽くしていた。メレキは、はっと我に返る。
「……ごめんなさい」
 気まずい沈黙が流れた後、メレキは蚊の鳴くような声で謝った。
「い、いや、大丈夫。こちらこそゴメン。それ、何か大切なものなんだね?」
 メレキはイヤリングを抱いたまま、小さく頷く。
「形見。私の、大切な人の」
「そっか…。家族かい? それとも、恋人?」
 その問いに、メレキはしばし黙り込んだ。
 血の繋がりはなかった。だから『家族』ではなかった。性別は違ったが、お互いを恋愛の対象として見たことはなかった。だから『恋人』でもなかった。『友達』というのとも、違う。一番近い言葉をあてはめるとすれば、『育て親』だろうか。しかし、メレキと彼の歳の差はたったの五歳。親と呼ぶにはあまりに歳が近すぎる。一緒に過ごした期間だって、たったの四年間だ。
「私にとって、彼は……彼でしか、なかった」
 結局、曖昧にそう答えた。
「そっか」
 アモルは優しく微笑み、肩を竦める。メレキの答えにアモルが納得できたとは思えない。けれども彼女はそれ以上訊こうとはしなかった。 相手の過去については、深く訊ねない――『シャングリ・ラ』でのルールを、アモルは忠実に守っているのだろう。
「おやすみ、メレキ。良い夢を」
 メレキは黙って頷き、ドアの閉まる音を聞く。アモルの足音が充分に遠ざかってから、メレキはランプの明かりを消した。
 再び訪れた暗がりと静寂の中で、そっと目を閉じる。
 ふと、『彼』との出会いと別れが、闇の中での出来事だったことを思い出した。


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