10.ヴェルム暦1341年


 紅い光はメレキをあるべき場所へと帰し、静かに消えていく。
 気が付けば、メレキはユルドゥズと呼ばれる街の路地に佇んでいた。
 汚い路地だ。酒の瓶やら、野良猫の死骸やら、見ていて気を害するようなものがごろごろと転がっている。 殺伐としたその光景は、まるで滅びの過程を具現化したようだった。
 しかし、今のメレキは知っている。滅びるものがあれば、その一方で必ず生まれるものがあるのだ。
 動き始めた時の中で、メレキは自分の姿を見つめる。
 左耳には、壊したはずのイヤリングが揺れていて。
 身なりは、相変わらず貧相で。
 見た目には、何もかもが元通りだった。
 けれども、今の自分はあの時とは――シャングリ・ラを訪れる前とは、違うのだ。
 メレキは空を見上げる。日没が近い。今日はここで眠るしかないだろう。
 でも、明日は何処へ行こうか。行く当てはないが、それはこれから何処にでも行けるということだ。
 ささやかな解放感に浸りながら、メレキは目を閉じた。
「メレキ!」
 不意に自分の名を呼んだ明るい声に、はっとする。振り返ると、見覚えのある友人が嬉しそうに手を振っていた。
「良かった、やっと見つけた…」
「アモル…!」
 駆け出したのは、どちらが先だったのだろう。 お互いの顔を確かめた次の瞬間に、メレキはアモルのしなやかな腕の中に閉じ込められていた。
「久し振りだ、メレキ」
「私にとっては、アモルと別れたのはほんの数分前だよ」
「そっか。あたしにとって、メレキと別れたのは三年前。何だか不思議だね」
 ヴェルム暦1338年に帰ったアモルは今、二十一歳である。
メレキに笑いかけるアモルの顔つきは、心なしか大人っぽい。
 背中に回した手を離し、改めてお互いを見つめ合ったとき、メレキの目はふとアモルの腹部に止まった。 そこにあるのは柔らかな膨らみだ。
「アモル、そのお腹――」
 メレキの言葉に、アモルがはにかむように微笑む。丸みを帯びた腹を、アモルは慈しむように優しく撫でた。
「シャマイムに負けないくらい、いい人を見つけた。あたしと同じで、戦争で恋人を亡くした人なの。 お互いが想っていた人のことを、忘れることは出来ないけど……一緒に前に進んで行こうって、その人と誓ったんだ」
 メレキはアモルの左手の薬指を見やる。そこにはシャマイムとの婚約指輪と、別の新しい結婚指輪がはめられていた。
「今月でもう八ヶ月になる。メレキ、触ってみるかい?」
 躊躇いながらも、メレキはそっと手を伸ばす。アモルの体温を感じながら、メレキはそこに宿る命を想った。
 アモルが身ごもっているのは、ラルゴか、ラーレか――それともシャマイムの生まれ変わりか。 どんな命であっても、強く生きて欲しいとメレキは願う。
「おめでとう、アモル」
「ありがとう。…そうだ、もう一つ嬉しい知らせがある」
 アモルはそう言うと、げていた籠から新聞を取り出した。
「レントが――いや、エウリが結婚したよ。サバハの王女とだ。アクシャムとサバハは同盟を結んだ。もう、二つの国が争うことはない」
「エウリが結婚…? それって、政略結婚ってこと?」
 結婚するのは構わない。しかし、それがもし彼の意思に反したことだとしたら、それは哀しいことだと思った。 だが、メレキの不安に反してアモルの表情は明るい。
「政略結婚なんかじゃないよ。見てごらん」
 差し出された新聞を受け取り、王宮で行われた盛大な結婚式の写真を見たとき、メレキは思わず目をみはった。 そこに写っていたのは――
「イェシル…!」
 溢れる幸せを満面の笑みに変えてレントの隣に並んでいるのは、シャングリ・ラで他界してしまったはずの少女の姿だった。
「驚いただろ? マーヴィはサバハの王だったんだ。だから、サバハの王女っていうのはイェシルのこと」
 メレキは食い入るように写真を眺める。レントとイェシルが掲げているのは、黒地に月と羽根が描かれたアクシャムの旗と、白地に太陽と鷹が描かれたサバハの旗だ。
 その後ろに、車椅子に身を預けているマーヴィの姿も見つかる。どうやら義手が完成したらしい。 親友と妹の晴れ姿に、メレキの見慣れた穏やかな笑みを浮かべて、マーヴィは嬉しそうに拍手を送っていた。
「望んでいない結婚だったら、こんなふうに笑えるはずがない。エウリとイェシルは、本当に幸せなんだよ」
 二人の明るい笑い声が聞こえてくるような気がする。
 メレキが感じるのは、ほんの少しのイェシルへの嫉妬。そして、その何倍もの祝福の気持ちだ。
「良かった…」
 偽りでも何でもない、素直な気持ちが口に出る。未来を見つめて歩き始めた二人の姿は、本当に綺麗だった。
「あたしたちも、負けてられないね」
「うん」
 メレキは新聞をそっと畳み、アモルに返す。
 風が、冷たくなってくる。
「さて、だいぶ暗くなってきた。そろそろあたしは帰らないと」
 アモルは星が浮かび始めた空を仰いだ。
「メレキはこれからどうするの?」
「計画なんか、何も」
「それならメレキ。あたしの宿で働かない?」
「え?」
 からかうようなアモルの口調に、メレキは目を瞬いた。
「ユルドゥズで宿を始めたの。どうやらあたしの天職らしくてさ。 この子が生まれたらあたしも大変になるし、シャマイムと違って旦那は家事なんてからっきしで。女手が欲しいんだ。
 メレキ、どうする? 来てくれるかい?」
 答えは決まっている。メレキは顔を綻ばせ、大きく頷いた。
「うんっ!」
 アモルがにっこりと微笑む。メレキの胸を幸福が満たす。
 ようやく、自分にも歩き出すことが出来たのだ。
 

―― 一つの過去アンビバレンスがある。
 一方では「哀」。
 もう一方では「愛」。
 苦しいから、忘れたい。
 ――でもそれは、私一人が抱えていることではなくて。
 大切だから、忘れられない。
 ――でもそれは、宝物として仕舞わなくてはならないことで。
未来を創ることを知った今、
 それは私を促す鍵と化す。
 時々振り返っても、もう、立ち止まらない。


 未完成の理想郷シャングリ・ラ・完


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