9.未完成の理想郷


 歩いているうちにすっかり陽は落ち、静寂と闇とがシャングリ・ラに広がっていた。最近まで、メレキは暗い所にいた方が落ち着いたものだ。だが、今は違う。
――今は、闇が怖くて仕方ない。
闇の中にいるだけで、息苦しくなるほど心臓が高鳴る。何処からか悲鳴が聞こえてくるような錯覚に囚われ、神経が張り詰める。 心的外傷トラウマとはそのようなものだ。
「どうした?」
エウリの声に、はっと顔を上げる。メレキはいつの間にか、エウリの方に身を寄せていた。 無意識のうちに恐怖から逃れようとする気持ちがあったのだろうか。慌てて体を離し、メレキは小さく頭を下げた。
「ごめんなさい…」
「いや、気にすんなよ。気分でも悪いのか?」
「そんなことない。大丈夫」
「ならいいけど。少しでも体調悪くなったらすぐ言えよ? 風邪、治ったばっかりなんだから」
 メレキは黙って頷く。気遣ってくれる優しさが嬉しかったが、まだ自分に微笑みを返すことは出来ないようだった。
「あんまりこっちの方には来たことないのか?」
「うん」
 今エウリと歩いている道は、いつも買い物に行く通りとは反対の方向である。視線を巡らせても、知っている建物はない。
 だが、一つだけメレキにも見覚えのある風景が目に止まった。建物と建物の間の、狭い路地だ。
 エウリが足を止めたので、続けてメレキも立ち止まった。
 深い哀しみと痛みが、メレキの胸を覆い尽くした。
「あんたはここに倒れてた。イェシルの血に汚れて、な」
 メレキは無言で路地を見つめた。 イェシルが倒れていた場所には、緑のリボンでまとめられた白い花のブーケが置かれている。 イェシルの死を嘆くように、ブーケは風に吹かれて揺れていた。
 エウリが前に進み出て片膝を着き、乱れた花をそっと纏め直す。
「エウリが置いたの…?」
「ああ。イェシルには、これくらいのことしかしてやれないから」
 エウリは指を組むと、静かに目を閉じた。
「イェシル……ゴメンな。あんたのこと、死なせちまって。痛かっただろ? 苦しかっただろ? 本当にゴメンな…」
 エウリの肩が小刻みに震える。エウリが謝ることなんか何もないのに。エウリの悔しさが、メレキにもひしひしと伝わってきた。
 イェシルに対する、生半可ではないエウリの想い。初めてはっきりと感じた気がする。それは何だか不器用で、けれどもしっかりと根が張っていた。
 だから、なのだろうか。
 メレキは穏やかな優しい気持ちになるのと同時に、言葉に出来ない切なさを感じた。

 ――メレキは、エウリが好きだ。

 それは、一般に『恋』と呼ばれているものとは共通しないかもしれない。 エウリのことが好きなのは事実だが、死んだイェシルからエウリを奪いたいと思うような執着心は、メレキにはなかった。 お互いの存在を感じることが出来さえすれば、それでいい。
 メレキはエウリの横に並んで膝を折り、エウリにならって指を組んだ。
「イェシル、お願い。マーヴィを助けて」
 エウリが驚いたようにメレキを見る。その目がつらそうに細められると、メレキもなんだか苦しくなった。
「…行こうか、メレキ」
「うん」
 立ち上がると、エウリの手がそっと肩に回された。恐怖とは違う緊張感を覚え、メレキの心臓がどきどきと高鳴る。
 隣のエウリの顔を覗き込み、メレキは強く思った。
 ――やはりエウリは、ラルゴとは違うのだということを。

            ***

 包帯を替えるのも、何度目になるだろうか。
 マーヴィの左腕の傷は、ゆっくりではあるが確実に広がっていた。それに伴う出血も、今朝から考えればかなりの量になるはずだ。 何度包帯を巻き直しても、うまく止血してやることの出来ない自分に、アモルは苛立ちを感じ始めていた。アモルに特別な看護の知識はない。
「マーヴィ、あんまり体を丸めない方がいいよ」 
 言ってはみるが、果たして何処まで聞こえているだろうか。 痛みが増してきたのか、先程からマーヴィは絶えず身をよじり、何度もベッドから落ちそうになっている。 その度にアモルはマーヴィの体を支え、ベッドに押し戻してやるのだった。
 傷は熱を持っていたが、血液を失ったマーヴィの肌は時間と共に冷たくなっていた。 まだ左足からの出血はないようだが、このままでは腕や足を失う前に失血死してしまうのが目に見えている。 アモルはマーヴィの体に毛布を重ね、これ以上の体温の低下にあらがった。
「ごめんね、アモル……」
「バカ! 喋るんじゃないよ!」 
 呼吸すらまともに出来ていないのだから、声を出すなんて以ての外だ。焦りでつい、語気が強くなる。泣きたくなった。
「アモル…。メレキを、お願い…。僕が死んだら、君が代わりに、彼女のことを……」
「そんなこと言わないで! あんたは生きるんだよ! 生きて、あたしたちみんなでメレキを守るの!」
 マーヴィは苦痛に呻きながら、虚ろな眼差しでアモルを見上げる。何か言いたそうにマーヴィの口が動くが、それはとうとう言葉にならなかった。
 瞳がすっと閉じ、糸が切れた傀儡のようにマーヴィが大人しくなる。
「マーヴィ!」
 呼びかけに反応はなかった。しかし、まだ呼吸は続いている。アモルはマーヴィを寝かせ直し、気道が開くように枕の位置を調節した。少しは楽になるだろうか。
 アモルは青白いマーヴィの顔を見下ろした。こんな状態になってまで、まだ彼は自分ではなく他人の身を案じる。 だからこそ神は、マーヴィに『犠牲』の魔力を持たせたというのか。マーヴィの運命を定めた神を、アモルは本気で憎いと思った。
「マーヴィ、少し待ってて。もう一枚毛布を取ってくるから」
 部屋を出ると、アモルはカウンター席にラーレがぽつんと座っているのを見つけた。
「ラーレ、一人なの?」
「あ、アモルのお姉さん! メレキのお姉さんとエウリ、外にいるよ。お兄さんの具合はどう?」
「……気を失っちゃったよ。腕の痛みも酷いみたいだ」
 心配させないように微笑んで言ったつもりだが、ちゃんと笑顔になっていたかどうか自信がなかった。案の定、ラーレの表情がふっと曇る。
「お姉さん…。わたし、お兄さんの看病交代するよ。お姉さん、徹夜だったんでしょ? 休んだ方がいいよ」
 アモルは今度こそ、しっかり笑ってみせた。
「ありがとう、ラーレ。でも大丈夫」
「だめだよっ!」
 二つに結った髪を揺らして、ラーレは大きく首を横に振る。
「ちゃんと休まなきゃだめ! お姉さんまで倒れちゃったら、わたしたちどうすればいいのっ!?」
「ラーレ…」 
 アモルは泣き出しそうなラーレから視線を逸らした。皆がそれぞれの感情に揺らいでいる今、一番しっかりしなくてはならないのは自分なのかもしれない。
「分かった、ラーレ。少し休ませてもらうよ。毛布を持ってきて、マーヴィの体が冷えないようにしてあげて。何かあったらすぐに呼んでね」
「! うんっ!」
 ぱっと顔を輝かせると、ラーレはすぐさま毛布を取りに走り、マーヴィのいる部屋に向かう。
 アモルはカウンター席に腰を下ろした。冷め切った二人分の食事がそのまま残っている。確かめるまでもない。きっと、メレキとエウリの分だ。
 メレキには、落ち込むとすぐに食事を抜く癖があった。一食くらいならまだ構わないのだが、今日はこれで二食目になる。 その上メレキは病み上がりだ。余計なお世話と分かっていても、つい心配になってしまう。
 そっとしておいた方がいいという気持ちもあったが、放っておけないという気持ちの方が勝った。メレキはレントに狙われているのだ。あまり外にはいない方がいい。
 アモルは二人を呼びに宿の外に出る。だが、そこには何処までも静かな闇が広がっているだけだった。
「メレキ、エウリ。…いないの?」
 きょろきょろと辺りを見回していると、微かな衣擦れの音が耳に届く。不意に生まれた人の気配に、アモルは振り向いた。 風になびく黒髪を持つ、青年の影が目に止まる。
「エウリ、そんな所にいたんだ。メレキは何処?」
 質問に答えは返ってこなかった。不審に思い、目を凝らす。人影が宿の入り口の明かりの下まで進み出たとき、アモルは息を呑んだ。 そこに立っていたのはエウリではなく、全く見覚えのない青年だったから。
「誰…!?」
 アモルは反射的にドアの前に立ち塞がった。宿の客はほとんど常連だ。知らない人間が来ることはあまりない。それに、マーヴィがあんな状態なのだ。 今は部外者を中に入れるわけにはいかない。
「今日は休みなんだ。悪いけど、引き取ってくれないかな」
 返事はなかった。何も言わずに自分を観察する青年に、アモルは警戒心を覚える。鋭い眼差しを向けて立ち竦んでいると、ようやく青年は口を開いた。
「通してくれないか」
「休みだって言ったでしょ? 今は人を入れるわけにいかないんだ」 
 青年は再び口を閉ざす。一体この男は何なのだろう。 黙ったまま睨み合っていると、おもむろに青年の手が伸ばされた。
「え…?」
 青年はアモルを無視してドアノブに手を掛ける。それから道を塞ぐアモルを避けると、躊躇うことなく中に足を踏み入れた。
「待って! 待ちなって!」
 慌てて宿の中に体を滑らせ、アモルは青年の腕を掴む。
「あんた、何なの!? 休みだって、さっきからそう言って――」
 アモルはそこで言葉を切った。振り返った青年の耳許に、紫のイヤリングが揺れたのを見たのだ。 雫型の大きなイヤリング――メレキが付けているものと少しも違わぬデザインである。
「マーヴィは何処だ。ここにいるんだろう?」
 放心状態のアモルは答えられない。 その様子を見て、青年はいぶかしそうに眉根に皺を寄せた。
 沈黙が訪れる。だが、長くは続かなかった。
「マーヴィのお兄さん! しっかりしてッ!!」
 ラーレの悲鳴と、激しく咳き込むマーヴィの声が聞こえてきたのだ。
 真っ先に青年が、わずかに遅れてアモルが、マーヴィのいる部屋に駆け込む。
「! 誰っ!?」
 青年を見てまごつくラーレの手を引き、アモルはマーヴィのベッドから離れた位置に立った。 青年は既にベッドの横に屈み、マーヴィを抱き起こしている。青年の腕の中で、マーヴィは苦しげに喘いでいた。 微かにまぶたが動く。
「あれ…? ラルゴ……」
「腕の痛覚を断つ。いいな?」
 マーヴィの返事も待たず、青年はマーヴィの左腕をさするように手を動かした。 青年のてのひらが、紅い光の尾を引く。 光が吸い込まれるようにマーヴィの左腕に消えていくと、マーヴィの表情からも苦悶の色が消えていった。 やがてマーヴィは、疲れたようにゆっくりと息を吐く。顔色は相変わらず良くないが、随分楽になった様子だった。
「眠ってろ、マーヴィ」
「うん…」
 静かに頷き、マーヴィは瞳を閉ざす。青年は血の滲んだマーヴィの腕の包帯を眺めると、アモルとラーレを見やった。
「包帯を貸してくれないか? 巻き方が甘い」
 ラーレが戸惑ったようにアモルを見る。アモルが黙って頷いてみせると、ラーレはおずおずと、手に持っていた包帯を青年に差し出した。
「ありがとな」
 青年はすぐさま手当てを始める。慣れた動作だった。アモルはその様子を見つめながら、意を決して、訊ねる。
「あんたがラルゴなんだね…?」
「ああ」
 振り返るどころか手を止めることもせず、ラルゴは軽く頷いた。
「話は聞いているのか? 俺の弟レントのこととか」
「うん。聞いてるよ」
「だったら話は早い」
 マーヴィの手当てを手際よく終えたラルゴは、さっきと同じ紅い光を使って包帯の要らなくなった部分を切断する。 それから立ち上がって、アモルに一つだけ質問した。
「メレキは何処にいる?」

            ***

 イェシルが殺された路地からさほど離れていない建物の前で、エウリは立ち止まった。
「ここが俺の家」
 メレキは目を瞬く。建物自体はアモルの宿よりも小さいが、大きなショーウインドウに驚いた。 マーヴィから、エウリが何か商売をやっていると聞いたことを思い出す。
「一階は店になってるんだ」
 建物に入ると、カーテンを閉めながらエウリが説明した。メレキは落ち着きなく店内を観察する。 ショーケースが並んでいて、その中には宝石をはめ込んだ数々の装飾品が収められていた。商品は、壁にも所狭しと飾られている。 その中でも繊細な装飾の施された美しい宝剣が、一際ひときわ目立っていた。
 以前迷い込んだ宝石店とはまた雰囲気が違う。静かに輝く宝石に、メレキは何か威厳のようなものを感じた。 素人目にも、その質の良さが窺える。値札を見ると、一番安くてもスラーイ金貨二十枚。メレキにはとても手の届かないものばかりだった。
 宝石の美しさに見とれるのと同時に、メレキは寒気を覚える。ここにある宝石の輝きは、煌びやかというより何処か冷艶だ。 ずっと見つめていると、なんだか哀しくなる。
「なぁ、メレキ。俺、あんたに頼みたいことがあるんだけど」
 不意にエウリが切り出したので、メレキは宝石から目を離した。
「頼みたいこと?」
「ああ。ちょっと言いにくいことなんだけどさ」
 エウリがメレキの耳許に目をやる。
「そのイヤリング……譲ってくれないかな」
 思いがけないエウリの頼みに、メレキの心臓が跳ねた。
「勿論、タダで譲ってくれとは言わない。あんたが欲しいだけの金を払うし、ここにある商品を好きなだけ持って行っていい。だから、頼む」
 真っ直ぐな視線が向けられる。驚愕で体が強張った。
 メレキは宝石店の老人のことを思い出す。あの人も、このイヤリングに興味を示していた。 このイヤリングはもしかしたら、メレキでは予測も付かない物凄い価値があるのかもしれない。
 しかし、メレキにとってこれは飽くまでラルゴの形見だ。
 どんなに物理的な価値があろうと、メレキにこのイヤリングを手放す気はなかった。メレキにとって、このイヤリングを越える価値を持つ宝石など存在しない。 たとえエウリの頼みでも、心は変わらなかった。
「これを譲ることは出来ない。大切なものだから」
 メレキが言うと、エウリはあからさまに顔をしかめた。
「どうしても駄目か?」
「…どうしてこのイヤリングを欲しがるの?」
「見ての通り、俺は宝石商だ。美しいものには目がない」
 エウリは肩を竦めて笑う。それは、取り繕ったような何処か不自然な笑い方だった。
「嘘、いてる」
 メレキの一言に、エウリの笑顔が消える。メレキは質問を重ねた。
「どうしてこのイヤリングを欲しがるの?」
 再びエウリの口許に小さな笑みが浮かぶ。だが、メレキを見据える彼の瞳は、決して笑ってはいなかった。
「あんたも鋭いのな」
「誤魔化さないで」
 エウリの態度に、メレキは不安を募らせる。いつもと違う。はっきりとそう思った。
 メレキの視線の前でエウリはしばし沈黙し、やがて静かに口を開く。
「…出来れば、もう人を傷つけたくないんだ」
「え?」
 不可解な回答に首を傾げたとき、突然青い光が視界を潰した。 眩しさに目をかばうと、体の平衡感覚が失われる。 背中に、鈍い痛み。目を開くと、真上にメレキを見下ろして立つエウリの姿があった。いつの間にかメレキは仰向けに倒れている。
「エウリ…!?」 
 胸の隅に生まれる、警戒心。上半身を起こし、痛む体を引き摺るようにメレキは壁まで後退あとずさった。 その後を追うように、さっとエウリの手が動く。
 メレキの喉元に、先程まで壁に掛けられていた宝剣が突きつけられた。
「!」
「メレキ、イヤリングを渡せ。さもないとあんたを殺す」
 殺す、という単語の残響が、メレキの耳にいつまでも残る。恐怖を感じるよりも困惑して、メレキは冷ややかなエウリの眼差しを見つめ返した。
「どうして…? どうしてそんなにイヤリングに執着するの…?」
 純粋な疑問だ。イヤリング一つに、エウリがここまでする理由が分からない。
「ソーサリー・ストーン――あんたのイヤリングは、魔女の魔力を封じ込めたもの。レントが『凝縮』の魔力で創り出した石だ。 その力は、『拡散』の魔力でのみ操れる」
 何気なく出されたレントの名前に、メレキはひやりとした。
「どうしてそれを、あなたが求めるの…!?」
「気が付かないか?」
 メレキに刃の根元の部分が見えるように、エウリが宝剣を動かす。メレキは愕然とした。そこには細い月と羽根が――アクシャムの王家の紋章が、彫られていたから。
「レント・アクシャム。…俺のことだ、メレキ」
 頭が真っ白になった。何も考えられなくなるが、剣の切っ先が喉に触れた痛みで、無理矢理現実に引き戻される。一筋だけ血が流れた。
「あんたの持つソーサリー・ストーンは、ヴェルトの『癒傷ゆしょう』の魔力を閉じ込めたものだ。 『癒し』の魔力を発動させればシャングリ・ラを完成させることが出来るし、『傷』の魔力を使えば破壊することが出来る」
「あなたはシャングリ・ラを壊すの…?」
 レントは答えずに、剣を持つ手に力を込める。まだ突き刺す力はないが、さっきよりも刃の切っ先が深くメレキの喉に沈み、息をする度に鋭い痛みが走った。
「イヤリングを渡せ。それだけで全てが終わる。あんたやラルゴが死ぬ必要はなくなる」
 痛みに潤んだ目で、メレキはレントを見上げる。剣があてられている所為で、必然的に呼吸が浅くなった。 イヤリングを差し出せばこの苦しさから解放されることは分かっていたが、手を動かすつもりはない。簡単に手放すことなど出来なかった。
 どうすることも出来ずにいると、不意に店の外が騒がしくなる。
「…何だ?」
 剣を動かさぬまま、レントが振り返った。視線の先で、ドアが勢いよく開いた。
「メレキ!」
 飛び込んできたアモルの姿に、メレキは目を見開く。 その後にラーレも続き、最後には――1度はメレキの前で死んだはずの青年と、彼に背負われたマーヴィが姿を現した。
「! ラル…っ!」
 メレキは青年の名を呼ぼうとするが、痛みに邪魔されて声が出せない。首も思うように動かせず、青年を正面から見ることさえも叶わなかった。
「レント、それ以上メレキに手を出すな!」
 レントは青年の強い口調に振り向くが、剣を下ろしはしない。
「エウリなの…? 本当に、レントはエウリなの…?」
 弱り切ったマーヴィが、虚ろな眼差しをレントに向ける。レントはマーヴィに背を向け、再び剣を握る腕に力を込めた。 刃先に浅く喉を裂かれ、我慢しきれずにメレキは短い悲鳴を漏らした。
「お姉さんッ! やめて、エウリ!」
 ラーレの悲鳴に、レントは眉一つ動かさない。
「よくここが分かったな、ラルゴ」
 静かな声音でレントが問うと、ラルゴがその背中を睥睨へいげいした。
「魔力を使っただろう。いつもより時間が長かったから、ようやく居場所を特定できた」
「でも、もう遅い。ここに来たのは失敗だったな。ここにはソーサリー・ストーンが溢れてる。 ほとんどはサバハの兵士から創った出来損ないだが、中にはシャングリ・ラにいた有能な魔女の魔力を封じたものもある。 下手に動くなら、俺は貴方のこともメレキのことも、瞬時に殺してしまえる」
 レントは側のショーケースを、青い光を纏った腕で割った。少し手を伸ばせば、レントは数々のソーサリー・ストーンをその手に収めることが出来るだろう。 一気に石の魔力を解放することが出来る。ラルゴは進めかけた足を止め、黙って奥歯を噛み締めた。
「サバハの診療所を襲ったのも、最近の行方不明事件を起こしたのも、君なの…?」
「お前が城下町で殺した人数と比べたらどうってことはない。そうだろ、マーヴィ?」
「そんな気持ちで、イェシルのことも殺したの…!?」
 睥睨へいげいれたマーヴィの声に、怒りが込められる。 イェシルの名前を聞くと、レントは振り返って鋭くマーヴィを睨んだ。
「俺はあの日、イェシルとは別の魔女を殺してソーサリー・ストーンを創っていた。 そこを彼奴あいつに見られたんだ。顔まで見られたかどうかは分からない。 だが、見られていたならば口を封じる必要があった。 振り返ったらすぐに逃げられたし、俺から彼奴の顔を確認することも出来なかったが、緑のリボンが落ちていたからすぐにイェシルだと分かった」
 だからあの日、イェシルは雨の中に戻ったのか。落としてしまったリボンを捜しに行くために。
「だけどイェシルは、エウリの顔まで見ていなかった。見えてたって、確信はなかったはずだわ。イェシルはあの日、あなたを心配して捜しに行っただけ…」
 もしも見えていたならば、あの日、イェシルはそのことを真っ先にマーヴィやメレキに話したはずだ。イェシルは何も言っていなかった。
 しかし、メレキの言葉を聞いても、レントの氷柱のような眼差しが緩むことはなかった。
「どちらにしても、いずれは邪魔になる存在だった。シャングリ・ラを破壊するためには、消さなければならなかったんだ。 初めて会ったときから、俺はイェシルをそういう目で見てきた」
 冷淡な口調でレントは告げる。あまりにも残酷な台詞セリフだった。 だが、メレキは心からレントを憎むことが出来ない。
 泣いていたレントの横顔が脳裏を掠める。
 白い花の前に膝を折ったレントの姿が目に浮かぶ。
 ――レントがイェシルを想っていた気持ちは、絶対に嘘などではないのだ。
 それなのにどうして。
 何故、自分の感情を抑えてまでレントはイェシルを殺した。
「どうしてあなたはシャングリ・ラの破壊を望むの…?」
 メレキが訊ねると、レントは沈んだ瞳でメレキを捉え、冷淡な口調で答えた。
「ここは偽りの理想郷だ。ここの創造主は、そもそも痛みなんか知らない」
 ラルゴの拳がぎゅっと握られるのを、メレキは見た。 レントはそんな様子に一瞥いちべつもくれず、淡々と続ける。
「ここでは時は止まり、変わらない毎日が何処までも続いていく。 ヴェルトの魔力でここが完成すれば、あるいはこのまま長い年月が過ぎれば、確かにいずれは傷が癒える日も来るかもしれない。 だが、痛みを忘れたとき、人は同じ事を繰り返す。
 例えば、ここには争いを持ち込む人間ならば殺してもいいという理不尽なルールがある。 これに反発する者が現れる日も、そう遠くはないはずだ。そうなれば、この世界でも争いが起こる。 現実世界で戦争が起こったときのように、人はまた傷つき、理想郷を求めて彷徨い始める。…永遠にその繰り返しだ。愚かだとは思わないか?」
 メレキは、レントの問いに答えられなかった。
 今、自分は傷を抱えている。痛みも知っている。これが完全に癒えたとき、自分はどうなるだろうか。
 気持ちは楽になるだろう。しかしそれは、また傷を受けることが出来る『余裕』が生まれることなのだと考えられなくもない。
「でも、レント。現実世界で人の心は崩壊寸前だ。今ここを破壊すれば、誰もが絶望に沈んだままそれぞれの時代に帰ることになる。 ある者は牢獄へ、ある者は戦場へ。アンタも例外じゃない。俺はそれを善しとは思わない」
 ラルゴの言葉に、ラーレとアモルが俯いた。メレキは、自分がシャングリ・ラに来る前のことを思い起こす。 過去にしか自分を知る者がいないという絶望的な孤独感を背負って、行く当てもなく彷徨っていた自分。 今あそこに突き戻されたら、今度こそメレキの精神は壊れてしまうかもしれない。
「それでも俺は、ここを壊すよ」 
 揺るぎない口調で、レントは宣言した。 
「ソーサリー・ストーンを渡せ。メレキが嫌だと言うなら、貴方が渡してくれてもいい」
 レントはちらりとラルゴに目をやるが、ラルゴが自分のイヤリングに手を触れる気配はなかった。メレキも動かない。
「死を選ぶのか、メレキ」
 レントの刃のような眼差しが、わずかに哀しみを宿す。
 シャングリ・ラを完成させることと、破壊すること。
 メレキにとってはどちらも正しく、そしてどちらも間違っていることのように思えた。
 痛みが癒されれば争いが繰り返され、傷ついたままなら人の心は崩壊する。どちらにも正と負とがあり、メレキに答えを出すことは出来ない。
 答えはきっと、そんなところにはないのだ。
 メレキは自分のイヤリングにそっと手を触れた。争いの原因になるならば、こんな石は必要ない。

 パキン、と小さな音がする。

 ――紫のイヤリングに無数の傷が入り、ひび割れて崩壊する。

「!」
 レントが息を呑み、粉々になったソーサリー・ストーンを見下ろした。ラルゴのイヤリングも、同じように小さな音を立てて砕け散る。皆が一斉に目を瞠った。
「メレキ! 今、何をしたッ!」
 レントがメレキをめ付ける。ぴりぴりとした殺気が、青い瞳に滲み出ていた。
「願っただけ。ただ……強く、願っただけ」
 レントの視線が研ぎ澄まされる。メレキは怖じ気づいたが、対抗するように、ぎゅっと口を真一文字に結んだ。
「メレキ・メイヴェ――あんたの名前を初めて聞いたとき、まさかと思った。メレキという名前は多いからな。 だが、あんたは弱いながらも確かに『力』を持っていた。銃に撃たれたあんたを助けたのも、その直前に『力』の波を感じていたからだ。 あんたは自分の傷を消したこともあった。イヤリングとアモルの話からも、あんたが何者なのかハッキリ確認した」 
 何の前触れもなく、喉元で剣が動く。急いで避けたが、首の横に浅い切創が走った。
「でも、あんたは自分の『力』を自覚することも、使いこなすことも出来ていなかった。だから、殺そうとまでは思わなかったんだ。 だけど……どうやら油断したみたいだな」
 レントが剣を構え直す。メレキは首の痛みと息の苦しさに堪えながら、よろよろと立ち上がった。
「メレキ。あんたは、ヴェルト・メイヴェの孫娘 ――つまり、ヴェルトと同じ『癒傷』の魔力を持つ四分の一クォーターの魔女だ」
「魔女…」
 メレキは目つきをキッと鋭くして、レントの顔を見る。
 メレキは自分の祖父の顔を知らない。どういうわけかメレキの父と祖父は仲が悪く、会うこともなかったのだ。
 だが、今なら――自分がクォーターの魔女だと知った今なら、それが何故だったのか納得できる。
 アクシャムでは、魔女の血が流れているか否かで就ける仕事も生活のレベルも変わってくるのだ。 直系とハーフの魔女の間にも、大きな格差がある。 祖父は直系の魔女であるだけで裕福な生活が約束されているのに、ハーフで生まれた父に同じような生活を享受する権利はない。 父が祖父に反抗するのも当然と言えるだろう。
「『癒傷』のソーサリー・ストーンがなくなった今、シャングリ・ラを壊す方法は二つしかない。 あんたが『傷』の魔力を発動させるか……それとも俺がラルゴを殺すか。 それが嫌なら、あんたが『癒し』の魔力でシャングリ・ラを完成させる前に、息の根を止める」
 状況はさっきと同じである。ソーサリー・ストーンがメレキの命に置き換わっただけ。だから、答えは出なかった。 メレキにはシャングリ・ラを壊す気もなければ、完成させるつもりもない。 第一、メレキに自分の魔力を使いこなすことは出来ないのだ。 先程どのようにしてソーサリー・ストーンを破壊したのか、既に自分で感覚が思い出せなかった。
「動かないのか? それならば、やらせてもらう」
 宣言するように言うと、レントはすぐさま剣をメレキに向けた。心臓が狙われる。メレキは屈んでそれを避け、強く床を蹴って身を退いた。 剣は、メレキの後ろの壁にぶつかって跳ね返る。 だが、レントは素早く剣をひるがえし、慣れない動作で体勢を崩したメレキを容赦なく襲った。
 ――右の腹に、焼け付くような激痛が走る。
「ッ!!」
「悪いな」
 メレキを振り落とすように、レントが剣を引き戻した。腹から抜かれた剣と一緒に、半分ほど命を持って行かれたような錯覚を起こす。 メレキは力を失い、がくりと膝を着いた。傷口を押さえた掌が、吹き出した熱い鮮血に濡れる。腕に銃弾が掠めたときとはまるで比べものにならない。 痛みとショックに眩暈めまいがして、瞬きをしても焦点が合わなかった。
「メレキ!」
「来るな、ラルゴ」 
 レントは剣の血を払い、緑の宝石が光る腕輪を見せる。ラルゴがはたと足を止めた。
「イェシルの魔力を封じ込めたソーサリー・ストーンだ。メレキの傷の進行を早めて欲しくなかったら、大人しくしていろ」
「やめてよエウリ! メレキのお姉さんを殺さないでッ!」
「エウリ、メレキに罪はないよ! お願いだから、もう人殺しはやめて!」
 ラーレとアモルの悲鳴に、レントは顔色一つ変えない。
 苦痛に呻き、荒い息を吐くメレキの顔を、レントは冷ややかな目で覗き込んだ。
「苦しいなら、改めて心臓を一突きしてやろうか?」
 メレキは微かに顔を上げる。少しの動作でも、傷に響いてつらかった。
「あんたはここで死ぬ。俺たちはそれぞれの時代に帰る。どっちが幸せなんだろうな。あんたはどう思う」
 全くの無表情で、レントはそんなことを訊いてくる。
「あなたは、それで、救われるの……?」
 逆に問うと、レントはつまらなそうに目を細めた。
「さぁな。でも、ある意味では救われるのかもしれない。時が動き始めたら、俺は全てを終わらせることが出来るんだから」
 その言葉に隠されたレントの決意を悟り、メレキは愕然とする。
「あなたは、死ぬつもりなの……!?」
 レントは答えない。
 痛みが内臓をえぐった。堪えきれず、メレキは身を丸める。ラルゴたちがざわついた。
「メレキ、死ぬのは怖いか?」
 繰り返し、レントが訊ねる。どうだろうか。意識を持って行かれそうになりながら、メレキは必死に考えた。
 全てを失ってからも、メレキは生き続けてきた。独りで、誰も知らない所で死ぬのが怖かったから。
 ――今は、どうだろうか。
 メレキの体を悪寒が襲う。脂汗が額に浮かび、深く息を吸おうとしても肺に空気が入らなかった。
「エウリ……。私、もう、死んじゃうのかな……」
「そんなことは自分の体に訊け」
 レントの放つ言葉は冷たい。しかし、そこにあるのはメレキを知ってくれる存在だった。孤独なメレキがずっと求めてきた、自分と同じ存在だった。
 ――今、自分は独りではないのだ。 
 そうと分かった瞬間、泣き声とも笑い声ともつかない微かな吐息が漏れる。
 涙が溢れたが、同時に小さく口許がほころんだ。
「メレキ?」
 無表情だったレントが、当惑したようにメレキを見る。
「私、死ぬのは怖いと思ってた…。生きていたこと、全て無に帰ってしまうことが、本当に怖いと思ってた……。 だけど、今は、みんながいて。私の死を、悼んでくれる人がいて」
 レントがハッと息を呑み、ラルゴたちが目を瞠る。メレキは苦しい呼吸の下で、微かな、けれども本物の笑顔を浮かべていた。
 ――そうだ。自分には、こんなふうに笑うことが出来たのだ。
 胸に溢れる幸せな感情が、懐かしい。
「メレキ、どうして笑う…!? あんなに笑わなかったくせに…! どうして今、そんなふうに笑うんだよ!!」 
 レントの手が、正面からメレキの両肩を支える。メレキは微笑んだままだったが、もう顔を上げる力は残されていなかった。
「今、私の存在を認めてくれる人が、ちゃんといるんだって分かって…。心が解放されたような、そんな気分なの…。エウリにも、きっと分かる」 
 メレキを雁字搦がんじがらめにしてきた、『過去』という名の鎖。
 それは忘れることが出来ず、同時に忘れてはならないものだ。
 しかしそれは今、メレキの中でゆっくりとほどけ、鎖ではなく一つの鍵へと姿を変えた。
 その鍵で開けた扉の先が、常に明るいとは限らない。鍵が合わない扉もあるかもしれない。だが、少なくとも、今のメレキには前に進んでいく力があった。
 ――孤独ではないというのは、そういうことだ。
 独りではないのなら、死ぬのはもう怖くない。
 けれど、独りではないのなら、メレキには望みがある。
「エウリ…。 最後に、一つ、ままを言ってもいい…?」
 遠のく意識の中、肩に触れるレントの手の暖かさを心地よいと感じながら、メレキは言葉を紡いだ。

「もっと、みんなと、生きてみたかった――…」

 視界が暗転する。
 全身の力が抜けて、メレキはレントの胸に倒れ込んだ。
 思考は完全に断ち切られる。
 痛みも苦しみも、同じ闇の中へと沈んでいく。
 レントの体温を感じることも、もう、叶わなかった。

            ***

 夜闇の中に、一匹の蝶がひらひらと飛んでいた。
 蝶が羽ばたく度に、眩しい光の粒子が煌めく。
 その様子は、胸が締め付けられるように哀しくて。
その一方で、思わず笑みが零れるほどに愛おしかった。
 蝶は、ゆっくりと何処かへと飛んでいく。
 その先に光はあるだろうか。
 知る術はないが、分かっていることが一つだけある。

 それは、立ち止まっていれば永遠に闇の中だということだった。

            ***

 鳥の鳴き声が聞こえる。
 重い瞼を持ち上げると、朝日の明るさに目がくらんだ。 ゆっくりと息を吐き、倦怠感けんたいかんを振り払う。 視界がはっきりしてくると、自分がベッドに寝ているのが分かった。
「メレキ、目が覚めたの?」
 声の方向に首を動かす。メレキのベッドの反対側に、同じく横になっているマーヴィの姿があった。顔色はあまり良くないが、苦しそうな様子はない。 だいぶ回復しているようだ。
「私、生きてるの…?」
 メレキが訊ねると、マーヴィは可笑おかしそうに笑った。
「生きてるよ。ちゃんと僕を見て、息をして、そこに存在してる。君は、気を失った後で『癒し』の魔力を発動させたんだ。自分で自分の傷を治したんだよ。 それにしても、すごい回復力だね。クォーターなのに」
 メレキは体を起こし、服をめくって傷を確かめる。 血が固まった跡があったが、傷そのものは消失していた。
「マーヴィは大丈夫なの?」
「うん。エウリが、イェシルのソーサリー・ストーンで傷の進行を防いでくれた。ただ、左腕はうまく動かなくなってしまったけどね」 
 相変わらず、マーヴィの左腕には包帯が巻かれたままだ。
 不意に、部屋のドアが開いた。
「おっ。メレキ、気が付いたか」
 見慣れた笑みを浮かべ、一人の青年が姿を現す。メレキの体に緊張が走った。
「ラルゴ…」
 その存在を確かめるように、メレキは彼の名前を発音する。
「何だ?」
 当たり前に返ってきた返事に、心臓が跳ねた。
 言葉を続けることが出来ず、メレキは無言でラルゴの青い双眸を見つめる。まだ幻を見ているような気分だった。
「ぼんやりすんなよ。もう充分眠っただろう?」
 メレキのベッドに近づいたラルゴは、おもむろにメレキの髪をくしゃくしゃと撫でた。 はっと息を呑む。そこには、生き物が当たり前のように持っている確かな体温があった。
 生きている。この場所でラルゴは、メレキたちと同じように生きているのだ。
 そっと、ラルゴの胸に身を寄せる。規則正しく繰り返される心臓の鼓動を聞きながら、メレキはゆっくりと目を閉じた。
 確かに、ここにあるのに――ヴェルム暦1341年に、彼の存在は何処にもない。
 暖かい手も、生の鼓動も、悪戯っぽい笑顔も、何も。
「メレキ」
 名を呼ばれ、顔を上げると、ラルゴは手を止めてメレキの瞳を見つめていた。 一年前と変わらない、爛々らんらんとした眼差しがそこにある。
「メレキはどうしてシャングリ・ラに来た?」
「え…?」
 唐突な質問に、メレキは瞬いた。
「シャングリ・ラは癒しを必要とする人間の存在を感じると、その人を引き込む仕組みになってるんだ。 だが、俺が死んでからメレキがここに来るまでには一年間の空白がある。つまり、メレキがここに来た理由は、俺の死や家族との別れとは別のところにあるってことだ。 俺は、それが何なのか知りたい。自分では分かってるんだろ?」
 メレキは記憶を辿る。メレキがここに来る原因になった出来事 ――それは、とても些細ささいなことだった。
「あの日は…私の十七歳の誕生日だった」
 メレキは短く答える。
 家族のもとにいても、ラルゴの許にいても、確実に成長していった自分。 そこにはいつも祝福があり、胸を満たす喜びがあった。
 しかし、ただ独りきりになったとき、年を重ねるという当たり前の営みはもう喜びでも何でもなかった。 ただ死に向かって一歩前進したという、それだけのことでしかなかった。
 祝福してくれる人はいなくなってしまったのに、自分だけ年を取っていくことが哀しくて。
 失った人たちから、どんどん離れていくような気がして苦しくて。
 ――心は立ち止まったままなのに、肉体だけが前へと進んでいくことが怖くて仕方なかったのだ。
「ラルゴ…。私からも一つ、質問していい?」
「何だ?」
 難しい顔をして俯いていたラルゴは、メレキの問いに顔を上げた。
「ラルゴが私を拾ったのは、私がヴェルトの孫だったから…?」
 後半はほとんど消えそうな声になりながら、メレキは訊ねる。ラルゴの瞳が迷うように揺れた。
「………そうだ」
 長い沈黙の果てに、ラルゴは小さく頷いて肯定の意を示す。
「そっか。やっぱり、そうなんだね…」
 思わず、声が震えた。
 訊いたのは自分だ。どんな答えが返ってくるか予測もついていた。それなのに、泣きそうになる自分がいた。
 ラルゴが自分に注いでくれた愛情は、結局偽りのものだったのだろうか。裏切られたような喪失感を覚えずにはいられない。
「メレキ。でも、勘違いしないで欲しい」
 ラルゴが真面目な顔つきになる。メレキは瞳を伏せて、後に続く言葉を聞いた。
「俺は確かに、アンタがヴェルトと同じ魔力を持つと知ったからアンタを拾った。だけど、残念ながらアンタの魔力はヴェルトと比べてかなり弱かった。 シャングリ・ラを完成させるほどの力はないと気が付いたんだ。だから、アンタのことはすぐに孤児院に預けるつもりでいた。
 でも……毎晩大泣きしてるアンタを見てたら、そんなことは出来なくなっちまった。アンタは俺に似ていた」
 メレキは静かにラルゴの顔を覗き込んだ。
「ラルゴもよく泣いたの…?」
「俺だって、親父に捨てられたときは十二歳の子供ガキだったんだ。 それも王族で、メレキ以上に孤独なんて味わったことがなかった」
 ラルゴは肩を竦め、寂しげな笑みを浮かべる。似合わない。ラルゴには相応ふさわしくない笑顔だった。
「俺は、アンタを独りにしたくないって思った。いや――それ以上に、俺が独りになりたくないと願った。 ジジィを亡くした俺は、メレキがいてくれたから、独りじゃなかった」
「私が、いたから……」 
 メレキは、はっと気が付く。
 ラルゴが見ていたのは、決してメレキの魔力ではなかった。
 自分の孤独を癒す存在として、ラルゴはメレキを選んでくれたのだ。一つのかけがえのない存在として、メレキを見つめてくれていたのだ。
 一度空っぽになった心が、心地よい温もりに満たされる。
「メレキ…。俺がしたことは間違っていたか? 俺はきっと、レントやメレキほどの痛みを知らない。そんな俺が理想郷を創ろうとしたことは、間違っていたか?」
 ラルゴの問いに、メレキはゆっくりと首を横に振った。
「間違ってなんかいなかった。この場所に来たお陰で、私は見つけることが出来たから」
 自分を認めてくれる、存在を。
 前に進んでいく、力を。
「過去が消えることはないのかもしれない。でも、今はそれでいいんだって思えるの」
 この記憶があるから、哀しみを忘れずに済む。愛しさを抱き締めていられる。
「ラルゴ。私はもう、大丈夫だよ」
 メレキの顔に、自然な笑みが浮かんだ。
「メレキには、そんな表情の方がずっと似合うね」 
 身を横たえたまま、マーヴィが嬉しそうにそんな感想を述べる。戸惑ったように視線を泳がせたラルゴも、やがてはメレキに笑顔を向けた。 例の、悪戯っぽい笑顔だ。
「メレキ。俺は、アンタを現実世界に帰してやることが出来る。勿論、望むなら永遠にここに留めることだって出来る。…アンタはどうしたい?」
 問いには答えず、メレキはただ一言だけ言った。
「エウリと、話がしたい」

            ***

 部屋を出ると、見慣れた後ろ姿をカウンター席に見つけた。
「エウリ」
 呼びかけると、レントは顔だけ動かしてメレキを一瞥する。視線はすぐに戻され、メレキがレントの表情を読むことは出来なかった。
「俺にもし希望があったとするならば、それはメレキのようになることだった」
 不意を討つように放たれた言葉に、メレキは体の動きを止める。空気がぴんと張り詰めた。
「笑わない。泣かない。感情なんて捨て去って、人形みたいになっちまえば苦しむこともないんだって。ここに来たばかりのメレキを見たとき、俺はそう思った。 だけどあんたは裏切ったな。あんたは泣いたし、死にそうになったところで笑顔を浮かべた。あんたは結局、俺と同じ弱い人間だった」
 メレキは何も言えずにレントの背中を見つめる。レントはただ淡々と言葉を続けた。
「弱い人間だけど……一つだけ、俺とあんたには決定的な違いがある。――メレキには生きていく力があって、俺にはそれがないってことだ」
 きっぱりと言い切られた言葉に、どきりとする。レントはゆっくりと振り向いて席を立ち、テーブルの上に置かれていた剣をメレキに差し出した。 メレキを刺したアクシャムの宝剣だ。
「取れ、メレキ」
 困惑するメレキに、レントは短く命令した。強い語気に気圧けおされ、メレキは無言で手を伸ばす。 メレキがつかを握ると、レントはすぐに剣から手を離した。 ずっしりとした金属の重みが、メレキの両腕にのし掛かった。
 剣は血に汚れ、酷く刃こぼれしていた。レントはこの剣で何人の魔女を殺したのだろうか。剣の重みはそれ自身だけではなく、消された命の重みだった。
「あんたは生きたいと願った。その瞬間に、俺は最後の希望を失ったんだ。俺と同じ存在はない。俺を解する者はいない。 運命が俺に残してくれたのは、最後にどうやってケリを付けるか選択する権利だけだ」
 死んだような眼差しがメレキを捉えた。レントの両眼は最早、『見る』という機能だけを果たすために存在する生気のない物質である。 レントのそんな表情を見るのが、つらくて仕方なかった。
「ここを壊して元の世界に帰ったら、俺は命を絶つつもりでいた。だけど、気が変わったんだ」
「…生きていくことに決めた、ってこと?」
 わずかな期待を持って問うが、瞬時に裏切られた。
「違う。あんたがここで俺を殺すんだ、メレキ」
 驚愕に目を見開く。剣を握る手が震えた。
「エウリ、どうして…!」
「今はこうして向かい合って話をしてるけど、いつ俺がまた、あんたを殺そうとするか分からない。あんたは生きたいと願ったんだ。俺がその望みを奪う前に、俺を殺せ。 いやとは言わせない。 俺を絶望におとしいれれたあんたには、そうする義務がある」
 レントの台詞には一切の感情がない。
「出来ない…。私にはそんなこと、出来ない…!」
 メレキは宝剣から手を離す。無意識のうちに発動した『傷』の魔力が、白い光になって剣を覆った。 剣が床に落ちると同時に、硝子ガラスが砕けるような音が響く。 無数の宝石と刃の破片が、涙の雫のように散らばった。
 レントは砕けた宝剣を見つめても、表情を変えなかった。
「殺す価値もないって言いたいんだな」
「違う!」
「だけど、あんたの望みは生きることなんだ。どうして躊躇う」
 レントの右手がメレキの首を正面から軽く掴む。レントの腕は太くはないが、それでも重い宝剣を扱えるくらいの力があるのだ。 本気で力を込めれば、片手でもメレキの首を絞め上げることは可能だろう。
 血管が弱く狭められ、ドクドクとした血流が首元で感じられる。
メレキはそのまま少し顔を上げ、じっとレントを見つめた。
「私は、生きたいよ。精一杯生きたい。独りじゃなくて、エウリやみんなと一緒に。現実の、時間の流れる世界で一緒に」
「綺麗事だな。元の世界に戻れば、俺たちはもう会うこともない」
「それでも、私は生きてるの。あなたのいる時代に、何処かで生きてるの。 会えなくたって、一人でも自分を知ってくれてる人がいるなら、それは生きる力に――前に進んでいける力になる」
 レントの瞳が小さく揺らいだ。その動きに気を取られていた矢先、レントの手に容赦なく力が込められる。気管を強く絞める苦痛。 メレキは息を詰まらせたが、次の瞬間には咳き込む余裕があった。レントの手はすぐに離れる。
 レントは戸惑ったような、微かな表情を浮かべた。
「現実世界に帰れば、俺は独りだ。父も母もなく、兄弟もいない。いるのは俺の財産を狙って媚を売る、薄汚い家臣ばかりだ」
「独りじゃない。私は『エウリ』のことを忘れない。何もかもが元に戻っても、ここでの記憶は消えないんだから。エウリも私の名前を覚えていて。 アクシャムではありきたりの名前だけど、私の存在を覚えていて」
 レントは何処か怪訝けげんそうにメレキを観察した。メレキはその瞳を無言で見返す。 やがてレントは覚悟を決めたように、静かにメレキを抱き寄せた。愛情を持って、と言うよりは、メレキの存在を確かめるような丁寧な所作だ。
 そのぎこちなさから、メレキはふと思う。レントにはきっと、誰かを抱き締めた経験などないのだと。
 レントの感じていた孤独感が、メレキの胸に雪崩なだれ込む。
「メレキ・メイヴェ」
 レントの腕に力が入った。
「ここは幻想都市だけど……あんたの存在は、幻でも何でもないんだな。――この上ない絶望だ」
 レントの声音が深く沈む。
「現実世界じゃ精神を保てないような人間が、俺の他にもまだいるんだな」
「だけど、それを希望と考えることも出来る」
 同じ存在がいるからこそ、この都市が必要とされなくなるように、世界を一緒に変えていくことが出来るのだから。
 レントは長い沈黙を作った後で、一言呟いた。
「…ゴメンな」
「謝るよりもお礼を言った方がしっくりくる場面は、いっぱいあるんだって……そう言ったのはエウリだよ」
 口を突いて、そんな言葉が飛び出す。レントは再び黙り込んだ後で、小さな溜め息を吐いた。顔は見えないが、微笑んでいるのではないかと思った。
「ありがとう、メレキ」
 それは、今までに聞いたどんな礼よりも胸に深く染み入ってくる感謝の言葉。 レントは手を離すと、穏やかに笑いかけてみせた。もうメレキに、微笑みを返すことはかたくない。 今頃になって、メレキの頬に赤みが差す。 
「やったねっ! エウリとお姉さん、仲直りだねっ!」
 元気な声に驚いて、二人は目を見開いた。いつの間にか、ラーレとアモルが側に来ている。 赤らんだ頬を誤魔化すようにメレキが笑うと、アモルが嬉しそうに微笑んだ。
「本当に良かった。あんたたちはもう、大丈夫だ」
 アモルは母親のように両手を広げて、メレキとレントを優しく抱き寄せる。胸を包む温かさに二人が瞳を閉じたとき、不意に客室のドアが開いた。
「答えは出たか、レント」
 ラルゴと、彼に支えられたマーヴィが姿を現す。アモルが手を離すと、ラルゴの問いにレントはハッキリと頷いてみせた。
「帰らせてもらうよ。現実の世界に」
「それならば、あたしもだ。あんたを一人で行かせたりしない」
 アモルが言うと、隣でラーレも高く手を挙げる。
「わたしも帰る!」
「…私も」
 ラルゴはメレキたちをじっと見つめ、何処か安心したように口許を緩めた。
「一斉には帰してやれない。一人ずつだ。…来い、レント」
「ああ」
 レントがラルゴの前に立つ。ラルゴが片手を伸ばすと、掌から生まれた無数の紅い光の粒子が、優しくレントを包み込んだ。
「…ゴメンな」
 囁くようなラルゴの言葉に、レントが目を瞬いた。
「俺は、アンタにみんな押し付けちまった。アンタは苦しまなくて良かったはずなのに。…ゴメンな」
「貴方からそんな言葉を聞くと思わなかった」
 レントはラルゴを困惑したように見ていたが、やがて微かな笑みを浮かべる。 最後のわだかまりが消えた様子だった。
「貴方のことは、まだ少しだけ憎い。でも…それ以上に感謝している。マーヴィ、お前にもだ」
 レントの視線の先で、マーヴィはつらそうに微笑んだ。
「エウリ。妹のことを――イェシルのことを、忘れないで。イェシルはずっと、君を想っていたんだから」
「ああ。約束するよ」
 光に包まれるレントは、だんだんとその存在が曖昧になっていく。消えてしまいそうになる直前、レントは意を決したように、一言だけ言い残した。
「有り難う、兄上。マーヴィ」
 レントは完全に消滅し、光の粒子は続けてラーレを包み込む。
 ラーレは光の中で両手を広げると、眩しい笑みを浮かべた。
「わぁ! なんだか、あったかいね。この光!」
 嬉しそうな声をあげるラーレに、アモルが哀しげな表情を向ける。
「ラーレ、本当にいいの? あんたは火刑に処されるんだよ?」
 アモルの言葉に、メレキはそれまでの微笑みを消した。
「ラーレは死んでしまうの…!?」
「そうだよ。だけど、分かったからいいの。きっといつか、平和が来るんだって。戦争のない時代が来るんだって。みんな、覚えててね?  わたしみたいに戦争の犠牲になった魔女が、星の数ほどいるっていうこと。忘れないで、死を悼んで、もう同じ事を繰り返さないで」
 言葉は重いのに、ラーレは笑顔を絶やさない。
「約束する、ラーレ」
「忘れないよ。あんたはあたしの大切な友達だ」
 メレキとアモルが言うと、ラーレは一層大きく笑った。
「わたし、みんなの時代にはきっといないけど……いつか生まれ変わって、みんなに会いに行っちゃうんだから! 絶対に、絶対に、今度は幸せになるんだからっ!」
 最後の最後まで明るさを失わずに、ラーレの姿も消えていく。
 光の粒子は、音もなくアモルへと移った。
「今度はあたしの番か。…ねぇ、メレキ」
心地よさそうに細めた目で、アモルはメレキを見つめた。
「あんたはここに来る前、ユルドゥズの街にいたって言ってたよね?」
「うん」
「それじゃ、きっといつか……ユルドゥズで会おう」
アモルが小指を突き出した。一瞬の戸惑いの後、メレキはその指に自らの指をかける。
「約束だからね、メレキ」
「うん…!」
 メレキは強く頷いた。
 光の粒子がだんだんと、アモルの姿をうずめていく。
「さて、時間みたいだ。またね、メレキ」
「また…ね」
 最後にニコっと笑って、アモルの姿が光の中に消える。
 いよいよメレキの順番が回ってきた。メレキを包んだ光は春風のように暖かく、何処か懐かしい。
「ラルゴはこれからどうするの?」
「シャングリ・ラを必要とする奴がいなくなるまで、ここにいる。その後で現実世界に戻って、死んでくるよ。十六歳のメレキの前でな」
 肩を竦めて笑うラルゴの姿に、メレキは痛みを覚えた。
「ラルゴの時間は、何処で止まっているの?」
「制御できない魔力を使ったアンタが、倒れちまったところで」
 メレキは驚いて目を瞬く。メレキが襲われそうになったとき、魔力を使ったのはラルゴだったと思っていたのに。
「私が魔力を使って、奴隷商人を攻撃したの…?」 
「ああ。アンタは確かに『傷』の魔力を使った。無意識のうちにな」
「それじゃ……ラルゴが死んだのは、私の所為なんだ」 
「どうしてそんなふうに思う?」
「だって、気を失ったりしなければ、私はすぐに助けを呼びに行くことが出来た。ラルゴは死なずに済んだかもしれない」
「…残念だけど、それはねぇな」
 ラルゴがそっと、メレキの両肩に手を置いた。
「俺が魔力で痛覚を破壊していたのは知ってるか?」
「うん…」
「そのお陰で、俺は銃弾を食らっても痛みに苦しまなくて済んだ。だが、それが命取りだったんだ。 俺は自分が動けなくなるまで、銃弾が胸に当たっていたことに気付けなかった。メレキが来た頃にはもう、俺は恐らく手遅れだったってわけだ」
「だけど…!」
「悲観することなんてないんだよ、メレキ」 
 言い返そうとするメレキに向かって、マーヴィが柔らかく言った。
「君が魔力を使って時間を稼いでくれたお陰で、ラルゴはシャングリ・ラに来る余裕が出来たんだから。こうして、君に会うことが出来たんだから」
 その時、ふっ、とメレキの視界が揺れた。光がメレキから、ラルゴとマーヴィを遠ざける。時間切れだ。
「ラルゴ! マーヴィ!」
 伸ばした自分の手は、既に輪郭がはっきりしていない。不安に駆られていると、肩に乗せられていたラルゴの腕が背中に回り、ぎゅっとメレキを抱き締めた。
「俺の時間はもう進まない。だけど、メレキには未来がある。もうアンタは、過去に囚われることなんかないよな」
 感覚が徐々に失われていく。メレキは体が動くうちに、ラルゴを抱き返して大きく頷いた。
「うん…!」
「さぁ、行って来い。頑張れよ」
 手を緩めたラルゴが浮かべるのは、いつもの悪戯っぽい笑み。だからメレキも、精一杯明るく笑い返してみせた。
「ありがとう、ラルゴ…!」
「俺からも、ありがとうだ。メレキ」
 それっきり、お互いの声は聞こえなくなる。

 光はメレキを覆い尽くし、幻想都市は夢のように消えていく。
 だが、メレキの胸に宿った希望は、決して幻などではなかった。

            ***

「行っちまったな…」
 メレキを運んだ光が消滅すると、ラルゴは嘆息した。
「吹っ切れたような顔してるね、ラルゴ」
 ラルゴは振り返り、片腕の友人を見やる。マーヴィは一人では歩けないが、立っていることだけなら問題なく出来るようだった。早い回復を、本当に嬉しく思う。
「やっと分かった気がするよ」
「分かったって、何が?」
「シャングリ・ラを創るって話を提案したとき、俺はジジィに言われたんだ。人の傷なんて、魔力でどうこう出来る問題じゃないかもしれねぇ、って。 その時は反発したけど、今なら理解できる。ジジィは、こうなることまで見抜いていたのかもな」
 シャングリ・ラを完成させるところに、答えなど存在しない。
実際にメレキたち四人は、ここが未完成のままに現実に帰る力を得たのだ。

 メレキたちは、気が付いたから。
 争いの一方で、誰もがそれを望んでいないことに。
 心の奥で考えていることは、きっと同じなのだということに。

 当初の目的とは違ってしまったが、自分がシャングリ・ラを創ったことは正しかったのかもしれない。今ならば少し、自信が持てる。
「さて、アンタはどうするんだ?」
 ラルゴはマーヴィに問いかけた。
「僕も帰らせてもらおうと思う。だけどその前に、君に言っておかなければならないことがあって」
「何だ?」
 訊ねると、マーヴィはにっこりと含み笑いをした。
「僕の名前は、マーヴィ・サバハ。つまり、サバハの第一王子だ」
「………!?」 
 何の緊張感もなしに突き付けられた真実に、ラルゴの反応が遅れた。
「僕がシャングリ・ラに来る直前に、サバハの王は病死した。だから、次に王になるのは僕ってわけ」
「待て! どうして今まで、そんな大切なことを黙っていた!」
「別に黙ってたわけじゃない。言うタイミングを逃し続けていただけのことさ」
 何でもないことのように、マーヴィはさらりと言ってのける。
「それにさ、ラルゴ。もし君やエウリが僕の正体を知っていたら、事はこんなふうに進まなかったかもしれないよ?」
 飽くまでのんびりとした態度に、ラルゴは苛立つというよりも呆れた。 だが、一方で心から安堵あんどしている自分がいる。
「……良かったのかもな」
「え?」
「サバハの王がアンタなら、レントも安心する」
 マーヴィとレントなら、きっと平和を現実のものとしてくれるだろう。数年は混乱もあるかもしれないが、いつかは絶対に、だ。
 胸を抉り返す痛みを、二人はよく知っているのだから。
「マーヴィ、俺からも一つ言っておきたいことがある」
 ラルゴが切り出すと、マーヴィは不思議そうに首を傾げた。
「何?」
「アンタの妹は、シャングリ・ラで命を落とした。…夢の中で死んだようなものだと思えばいい」
 マーヴィがハッと目を瞠る。ラルゴは、揶揄やゆするように口許で笑った。
「要するに、アンタが帰った先にイェシルはちゃんと存在してるってことだ。死んでなんかいない。 でも、混乱してるだろうから、何があったのかちゃんと話してやれよ?」
 マーヴィの顔が、ぱっと輝く。
「…うんっ!」
「さて、これでお話は終わりだ」
 ラルゴは紅い光を創り出し、そっとマーヴィの方に向けた。
「レントのこと、頼んだからな」
「君は寂しくない? みんな行ってしまって、独りになってしまって」
 ラルゴは、ふっと笑う。なんてくだらない質問をするのだろう。
「俺は独りじゃねぇよ」
「…そっか。そうだよね」
 マーヴィは納得したように笑った。
「じゃあな、マーヴィ」
「ラルゴ。生まれ変わったら、会いにおいで」
「頼まれなくても行ってやる。アンタやメレキに会いに、必ずな」
「うん。それまでにきっと、呆れるほどの平和を用意しておくからね」 
 マーヴィは柔らかく微笑んで、光の粒子と共に帰っていく。
 
 誰もいなくなった空間を、爛々とした眼差しで見つめる。
 ラルゴは、幸せな溜め息を一つ吐いた。 


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