★五年前 〜星空の下の記憶〜
父に手を引かれ、街にやって来たメレキは、
喜びに顔を綻ばせた。
十二年間の人生で、家から遠いこの街に連れてきてもらったのは初めて。
しかも、三人もいる兄を差し置いて末っ子のメレキだけを、だ。
「メレキ、ここで待っていなさい。お父さんは買い物をしてくるから。すぐに戻るよ」
父の言葉に、メレキは素直に頷く。もしかしたら、父が買い物をしている間に少し街を探検できるかもしれない。
メレキの胸は期待に膨らむばかりだった。
「それじゃあな」
「うん!」
手を振り、遠ざかる父の姿。
それが見納めになるなど夢にも思わず、メレキは笑って手を振り返すばかりだった。
***
メレキは冷たい壁にもたれかかり、空を仰いだ。陽はもう落ちかけて、闇が迫っている。
だんだんと下がっていく気温に、メレキは身震いした。
すぐに戻ると言ったのに。
大通りに視線を滑らせても、父の姿は見当たらない。辺りが暗くなるにつれて、メレキの不安は大きくなる一方だった。
街に連れてきてもらえたという喜びも失せていき、孤独感が胸を支配する。
やがてそれに焦りが加わると、メレキはいよいよパニックに陥った。
「お父さん!」
メレキの悲鳴に、道行く人が振り返る。しかし彼らはメレキを一瞥すると、
何も見なかったと言うように歩を進めていった。
闇に呑まれる夕日のオレンジ色。減っていく通行人。
「お父さん!」
足を止める者はない。自分の声だけが虚しく響いて、メレキは透明人間にでもなった気分だった。
「お父さんっ!」
三回目の悲鳴をあげたとき、メレキの前で一人の青年がはたりと足を止めた。
年の頃は十六、十七――一番上の兄と同じくらいだ。
青年の黒い髪はボサボサで、青い瞳は何処か意地悪く見えて、メレキは小さな恐怖心を覚えた。
青年はメレキの前までやってくると、品定めをするようにメレキをじっ、と眺め回した。
「貧しい農民の口減らしってところか」
青年の言葉に小さく首を傾げる。困惑するメレキを見つめ、青年はさらに言葉を続けた。
「捨てられたんだよ、アンタ。最近多いんだ。子供をここに置き去りにしていく親」
どくん、と跳ねる心臓。まさか。
「路地に入って夜を過ごせ。アンタみたいな子供を捕まえて、売り飛ばす奴らも珍しくない。見つかる前に隠れろ」
青年の言葉を最後まで聞かずに、メレキは大きく首を横に振った。父が自分を置き去りにする?
まさか。父はメレキを愛している。いつもいつも可愛がってくれるのだ。何処に捨てられる理由がある?
「すぐに戻るって言ったもん! お父さんはわたしを捨てたりしない! 変なこと言わないで!」
一瞬胸を過ぎった不安を誤魔化すように、メレキは叫んだ。
「そうか? それなら構わないけど」
青年はあっさりと身を退き、家路につく人々の群れに加わって姿を消す。その姿を見送って、メレキは深呼吸をした。
やがて人々はすっかりいなくなり、静寂が夜の空気を包む。
そのうちにメレキは、青年に会う前以上の孤独感に襲われていることに気付いて、ぞっとした。
いつの間にか心の何処かで、父が帰ってこないと確信しているような気がしたからである。
メレキは壁に身を預けて座り込む。とても寒い。吐く息で手を温めようとするが、風に持って行かれる熱の方が多かった。
小さく震えながら、ぎゅっと身を縮めて寒さに堪える。
「おい、ガキ」
突然降ってきた声に、メレキは息を呑んだ。父親の声ではない。
恐る恐る顔を上げれば、そこには先程の青年が毛布を手に立っていた。
「来そうかい? あんたのお父さんとやらは」
メレキは顔を俯かせる。
我慢しようと思ったのに──涙が、嗚咽が、意思に逆らって溢れ出した。
青年は屈み込み、メレキをそっと毛布で包む。
「今は泣くな、声を出すと捕まるぞ。もう奴らが徘徊し始める時間だ。立てるか?」
青年の言葉に頷くも、涙は止まらない。
深い哀しみが胸を抉り返し、その痛みに結局、メレキは自力で立ち上がることが出来なかった。
「仕方ねぇなぁ…。大人しくしてろよ」
青年はそう警告すると、メレキを抱き上げ、声が漏れないようにしっかりと胸に抱えた。
青年が歩き出す。何処に連れて行かれるのだろう? 怖かったが、抵抗しなかった。
今は泣くことしか、出来なかった。
青年の腕の隙間から見える、星のない夜の街の風景。そこには人っ子一人いやしない。
――本当に、捨てられたのだ。
***
すっぽりかぶった毛布の隙間から、温かい光が入ってくる。
メレキは青年が立ち止まったのに気が付いて、そっと毛布を捲った。古びた部屋の内装が目に飛び込んできた。
「ここでなら、いくら泣き叫んでも大丈夫だぜ」
青年はメレキをソファーに下ろす。ソファーと言っても埃臭く、
穴だらけで弾力性もほとんどないような代物だ。
「ん? もう泣かないのか?」
黙り込んだままのメレキに、青年が語りかけてくる。メレキは何も言わず、毛布に顔を埋めた。
外でさんざん泣き叫んだ所為で、声も涙ももう出ない。
ただ、夜気と恐怖で体は絶えず、がくがく、がくがく、震えていた。
青年はしばらく沈黙を守っていた。メレキが何か言うのを待っていたのだろう。
しかし何も言わないと分かると、やがて静かな声音で話し始めた。
「今月に入って、俺が見ただけでも捨て子は三人目だ。戦争の影響で税金が跳ね上がったからな。
食費や人頭税を減らすには、家族の頭数を減らすしかない。非道だけど、よくあることだ。
殺されたり売られたりしなかっただけマシだって思いな」
冷たい言葉。どうしてそんなことが言えるのだろう。メレキはきつく自分の身を抱き締める。
「腹減ってるだろう。何が食べたい? こう見えても、料理は得意なんだぜ」
メレキは答えない。胃の中まで哀しみで満たされて、空腹感もない。
青年はさすがに困ったらしく、しばらく黙り込んだ後に、こう言った。
「俺も捨て子だったから、アンタの気持ち、分かんないわけじゃない。
でも、落ち込んでたって何も始まらないからさ。とりあえず、ここで面倒見てやる。だから安心しろよ」
毛布の上から、青年がメレキの頭を優しく撫でる。メレキの目に、また涙が滲み始めた。
「俺は、ラルゴ。よろしくな」
何も言うことが出来ぬまま、全てを忘れようと、メレキは強く瞳を閉じる。
***
メレキとラルゴの奇妙な生活が始まった。
ラルゴは日中、ほとんど家にいた。
時々買い物に出ていくが、あとはメレキの側にいて絶えず話しかけてくる。
しかし、メレキはラルゴの言葉に、首を縦か横に振る以外の反応を示したことがなかった。
自分の名前すら、ラルゴに告げていないのである。
夜になるとラルゴは夕食の準備をしてから、毎日何処かへ出掛けて行った。
ラルゴ曰く「仕事」をしているらしいが、それが何なのかメレキは知らなかった。
危険な仕事らしく、時々怪我を負って帰ってくる。しかし本人は傷を痛がるような素振りは見せないし、
メレキは自分の見えない傷の痛みを堪えるのに精一杯で、他人のことまで気が回らなかった。
捨てられて以来癒えない傷に苦しみ、まともな食事も出来ず、ただ涙を流し続ける――
メレキの毎日は、そうやって消費されていく。
そんな日常が不意に崩れたのは、メレキが命の灯火を自ら消してしまおうと、そう考え始めていたときのことだった。
***
「それじゃ、行ってくるから」
いつものようにラルゴが出かけて行った夜、メレキは台所に包丁が出しっぱなしになっているのに気が付いた。
ラルゴは普段、刃物類を大袈裟なくらいにしっかりと管理している。
以前、包丁を出したままにしていた所為で痛い目を見たことがあるらしい。
刃物類を仕舞う専用の木箱を用意し、使い終わったら鍵までかけているのだ。
だから今日のように、包丁が野菜を切った後のまま放置されているのはとても珍しいことだった。
メレキはそっと包丁を手に取る。それは使い方を誤れば、命を奪ってしまえるほどの力を持つ、凶器。
手が震える。望むならメレキはこれを、自分の胸に突き立てることが出来るのだ。
全てを終わらせることが出来る。そうすればこの苦しみからも解放されるのだろうか?
今よりずっと、楽になれるのだろうか?
刃の切っ先を、静かに胸に押しあてる。意を決して、力を込める。
――ドアの開く音がした。
「忘れ物しちまった。テーブルの上にある紙、取って…」
ラルゴの言葉が止まる。メレキは息を呑み、しかし包丁から手を離さなかった。
「アンタ、それ…!」
「来ないでッ!」
歩み寄ってくるラルゴを、悲鳴で制する。
「わたし、決めたんだから! もう、何もかも終わりにするの!」
ラルゴから目を離し、再び包丁に意識を集中させる。次の瞬間、ラルゴの大きな手が思い切りメレキの頬を張った。
包丁がメレキの手を離れ、ラルゴの腕に深い傷をつけてから、勢いよく床に突き刺さる。
「死ぬよりもマシな方法考えろ。大馬鹿野郎」
がくりと膝を着いたメレキの目の前に、ラルゴの血が滴り落ちる。
激しい震えが沸き上がり、メレキは倒れ込むようにして、泣き崩れた。
***
そろそろ春だというのに、夜の街はまだまだ冬の寒さを残していた。
「綺麗だろ、星」
まだ泣きやむことが出来ず、しゃくりあげるメレキにラルゴが話しかける。
ラルゴは仕事に戻らず、メレキを外に連れ出した。
どういう意図があってそうしたのかは分からないが、いつもと違うことをするからには無意味ではないのだろう。
「死んだら、人の命は星になるんだとさ」
『死』という言葉に、メレキはびくりと肩を震わせる。反射的に、白い包帯に包まれたラルゴの右腕を見た。
「でもさ、見て分かる通り、星には明るさがある。
精一杯生ききった奴ほど、星になったときに明るい綺麗な光を纏うんだってさ。
俺に似合わない台詞だろ。
俺を拾ってくれたジジィの受け売りだ」
ラルゴは足を止め、傷ついた腕でくしゃくしゃとメレキの頭を撫でる。
顔を上げると、そこにはラルゴの笑顔があった。
「アンタが哀しいって気持ち、よく分かるよ。でも、今ここで死んじまったら、アンタはきっと弱い光しか纏えない。
誰にも見えないような星になるなんて、それほど哀しいことはないと思うからさ。
…せっかくなんだから、眩しい星になろうぜ? 俺はそう決めた。
捨てられて惨めな思いしてきたけど、最後の最後は輝いてやろうって、そう決めた。だから今、生きてる」
メレキは星空を仰ぐ。闇を飾る、数多の星。生きていれば、この哀しみは癒されるだろうか?
いつかあの星々の一つになって、きらきら輝くことができるだろうか?
「どうした? 反応がないぜ、ガキ」
「ガキじゃない」
覚えず、メレキはそう口答えしていた。
「メレキ。わたしの名前は、メレキ」
ラルゴは驚いたように肩を竦め、それから視線を空高く上に向ける。
「天使か。
それじゃ、アンタは星々を司る天使だな」
下手な台詞だ。メレキは思わず吹き出し、つられてラルゴも笑い出す。
初めて、笑った。そんな気がした。
***
慎重に包丁を手にし、野菜を切っていく。母を手伝っていたから、料理は苦手ではない。
トントンと規則正しいリズムを刻んでいると、ラルゴが起き出してきた。
「ん? 朝食作りか? 俺がやるから、アンタは寝てていいのに」
メレキは振り返り、首を横に振る。
「ラルゴの腕が治るまでは、わたしがやる。ううん、治ってからも、朝食はわたしが作る。
そうしないと、恩返しできない」
「……そうか。それじゃ、ありがたく朝寝坊させてもらうとしますか」
ラルゴは嬉しそうに笑いながら、ベッドに戻っていく。メレキは包丁を持ち直し、野菜切りを再開した。
――きっと誰よりも眩しい星になろう。そう決めたのだ。
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