6.空っぽの胸を満たすは涙


 昨夜の雨は上がっていたが、吹き抜ける風は冷たく、空はまだ雲に覆われていた。 朝からこのような天気だと、今日一日がうまくいかないような憂鬱な錯覚に囚われる。 日課である散歩に出たエウリは、曇天を仰いで嘆息した。
 ここのところ一週間は仕事に専念していたので、エウリは最近『ロスト・シープ』にもアモルの宿にも足を運んでいない。 それでいつものように酒を飲まなかった所為か、昨夜、エウリは酷い夢を見ていた。
 ――不気味な夢だ。
 荒れ果てた戦場の中に、エウリが一人たたずんでいる。 敵は退き、味方の兵士たちは例外なく死体と化し、息をしている者は自分の他にいない。 その中で自分はただ、呆然と立ち尽くしているのだ。孤独感に胸を支配されながら。
 エウリはもう一度溜め息を吐いた。気分が悪い。今日は『ロスト・シープ』かアモルの宿に世話になった方が良さそうだ。
 エウリは今夜の予定をぼんやりと考えながら、いつもの散歩のコースを歩いた。街の風景はいつだって変わらない。
 この都市に来て二年になるはずだが、 エウリは最早もはや確信が持てなかった。 現実世界のような時の流れを持たないこの場所に長くいると、時間の感覚なんて麻痺してくる。 都市にruby>だまされているような気分だ。
 視線を落として歩を進めていたその時、エウリはふと、前方の騒がしさに気が付いた。
 顔を上げると、目の前に人がたかっている。 朝から一体何だというのだろう。 怪訝けげんに思いながら、エウリは人垣に近づいた。
「何の騒ぎだ?」
 訊ねると、側にいた女性がおびえたような目をエウリに向けた。
「見て。あそこ、女の子の死体」 
 エウリは女性が指し示す狭い路地に目をやる。 ぐったりとうつ伏せに倒れている、一人の少女の姿があった。少女の金の髪は雨に濡れている上、地面に広がる血に汚れて乱れている。
「行方不明事件が続いたと思ったら、ついに死体だ」
「ここもおしまいなのかしら…」
 ひそひそと言い合い、皆が少女を遠巻きにする中、エウリはじっと少女を観察した。 何となく見覚えがある気がしたのだ。
 力無く投げ出された少女の手には、紫の輝きを持つ宝石が大切そうに握られている――
「…メレキ!?」
 はっと気が付いたエウリは、 人集ひとだかりを掻き分けて少女の側に駆け寄った。 野次馬が騒ぐが、気にしない。エウリは屈み込んで少女の顔を覗き込む。間違いなく、見知った顔だ。
 エウリはメレキの肩をぐっと抱き上げた。濡れた服の下から、確かに伝わってくる体温。 死体ではなかった。まだ、生きている。エウリは自分の膝を枕に、そっとメレキを横たえた。
 まず目に飛び込んできたのは、赤黒い血に染まった服だ。 怪我をしているのかと、エウリは素早くメレキの体に視線を滑らせる。しかし、服が破れたような跡は何処にもなかった。
 次に気が付いたのは、 メレキの左の頬に出来た擦過傷さっかしょうだ。 倒れたときに地面に擦ってしまったのだろう。 そこには血が固まっていたが、しかし、服をここまで血に汚すほどの量ではなかった。
 それならば、この血は一体何だ?
 苦しげな息をするメレキを見つめながらエウリは考え込む。 だが間もなく、そんなことをしている状況ではないことに気が付いた。 メレキの頬が火照ほてっている。 濡れた髪をよせて額に手をやると、自分と比べなくても熱が出ていることがはっきり分かった。
 この寒さだ。もしメレキが昨夜からここにいるというならば、風邪を引いて熱を出すのも無理はない。
 エウリは胸の前にメレキをしっかりと抱き上げた。アモルの所に急ごう。 早く乾いた服に着替えさせて、寝かせないと。
「い、や……」
 立ち上がったとき、エウリはメレキが消えそうな声で言葉を紡ぐのを聞いた。
「メレキ?」
 エウリの呼びかけに対し、メレキのまぶたが微かに開く。 しかしその目はエウリを見ていないどころか、焦点が定まっていなかった。
「いや……いかないで、イェシル……ラルゴ…。もう、何も、奪わないで…!」
 錯乱しているのか、メレキは訳の分からないことを呟く。 困惑して進めかけた足を止めると、メレキはエウリの腕の中で小さく身を縮めた。 まるで、何かに怯えるような動作。イヤリングを握り締めるメレキの手に、力が籠もる。
「やだ…死なないで…!」
エウリはメレキの顔を覗き込み、どきりとした。
――哀しみに歪んだ表情が、そこにあった。
 メレキはいつも暗い顔をしているが、それとはまた種類が違う。 傷ついた心をさらけ出したような、 見ている方がつらくなる痛々しい表情だ。 虚ろな黒い瞳からは、涙も流れている。
 エウリは突き放されたような気持ちになった。メレキは笑わず、それでいて泣きもしない人間だったはずだ。 それなのに今、メレキは幼子おさなごのように泣いている。こんなにも、弱々しく。
「メレキ…。何があった?」
 返事はない。 メレキはふつりと瞳を閉じ、すがり付くようにエウリの胸に身を寄せた。 譫言うわごとを繰り返し、溢れる涙をそのままにして。
「メレキ…」
 エウリは服の袖でメレキの涙を拭ってやる。頬の傷に染みないようにと、そう思ったのだ。
 しかしそこで、エウリは気付かされる。
 メレキの頬にあった擦り傷は、いつの間にか綺麗になくなっていた。

            ***
 
 脳裏を支配する、ドロドロとした赤黒い記憶。
 響き渡る悲鳴と、最期の囁き。
 視界を埋める真紅のあやと、充満した死の臭い。
 肌にまとわりつくのは、生気のない冷たい空気。

 ――いや…!

 声は虚空を駆け、しかし誰にも届かない。
 
 ――やめて…! 

 迫り来る闇が体を蝕み、心までをも浸食する。
 あと少し。これ以上持って行かれたら、確実に自分は崩壊する。
 
 ――厭だ…。もう、私を独りにしないで!!

 喉が潰れるほどに叫んだその時、震える腕を握ってくる暖かい手があった。

 ――泣くんじゃないよ。あたしは独りじゃないって、そう言ってくれたのはあんただろ? あたしが独りじゃないように、あんたも独りじゃない。 だから、大丈夫だよ。

 優しい声が、メレキの意識を呼び覚ます。

「アモル……?」
 涙に濡れて揺らめく視界に、見覚えのある少女の姿がぼんやり映った。
「メレキ! 良かった、落ち着いた?」
 メレキは目を瞬かせ、自分の置かれている状況の把握に努める。
 見覚えのある、薄汚れた天井。アモルの宿の自室に、メレキは寝かされていた。
「酷く汗をかいてるよ。脱水症状起こさないように、水飲みな」
 アモルはメレキの背に手を回し、体を起こすのを手伝ってくれる。 その時にメレキは、アモルの手がひんやりとしていることに気が付いた。
「アモル…。手、冷たい」
「あたしの手が冷たいんじゃないよ。あんたが熱出してるの。ほら、水」
 アモルはメレキの肩をしっかり支えると、口許くちもとまでコップを持ってきてくれる。 メレキが熱を持った両手でそれを口に運ぶと、心地よい冷たさが乾ききった喉を通り、息をするのが楽になった。 しかし、身を起こしたままでいるのは辛くて仕方ない。どうやら、自分で思っている以上に体は弱っているようだ。 水を飲み終えると、どろりとした気持ちの悪い眠気に襲われ、思わず吐き気を覚える。
 アモルは空になったコップを受け取ると、メレキを寝かせて毛布をかけ直してくれた。
「私、どうしてたの…?」
「覚えてない? まあ、この熱じゃ無理もないかもね。まだ全然下がらない――どころか、上がってるね。これは」
アモルの手がメレキの額に触れる。やはりその手はひんやりとしていて、熱い肌に心地よかった。
「路地に倒れてたんだって。エウリが運んできてくれたの。ずっとうなされてたから、本当に心配した」
メレキはおぼろな自分の記憶を辿る。 鈍った思考回路はやがて、雷にぎらりと反射した剣に行きつき、それを始まりにメレキの中に恐ろしい記憶が蘇った。
──目の前で、重力に従い倒れるイェシル。自分だけが見た、一人の人間の死の瞬間。
意識する前に、再び涙が溢れ出す。
「メレキ?」
「アモル…。私、路地で…」
言葉はうまく続かず、声は嗚咽へと変わった。どうすることも出来ず、メレキは毛布を目に押し当ててしゃくりあげる。 アモルは戸惑う様子を見せた後、メレキの髪を撫でて、慰めるように微笑んでくれた。
「いいよ。何があったのか、今は喋らなくて。エウリと約束したんだ。あんたがちゃんと回復するまでは、何にも訊かないって。 今は、風邪治すことだけ考えな」
弱っている所為なのか、抑えが利かない。止まらない涙を流し続けるメレキを、アモルは何度も何度も優しく撫でてくれた。
「何か食べたい物とか、して欲しいこととか、あったら遠慮なく言って」
「……側に、いて」
今は、とにかく独りにされたくない。怖くて仕方ないのだ。
「うん、お安い御用だ」
 メレキを元気づけるように、一層明るくアモルが笑う。
 その笑顔の中には家族やラルゴとは違う、メレキの知らない愛情の形が含まれていた。

            ***

 熱が下がるまで二日、普通の食事が摂れるようになるまではさらに一日かかった。
 今日は、熱を出して倒れてから四日目になる。 もう体調はほとんど万全だったが、大事をとって、ということで、アモルはまだメレキが仕事に復帰することを許してくれなかった。
 ベッドに横になりながら、メレキは窓の外の夕焼けを眺める。 街はとても静かだった。行方不明事件が続いているため、暗くなると外を歩く人が減ってきているのだ。 メレキが落ち着いて眠れるようにと、アモルはこの四日間宿を休みにしているので、宿の中もしんと静まり返っていた。
「メレキ、起きてる?」
不意に、ドアの外からアモルの呼ぶ声が聞こえた。
「うん。起きてる」
もう呆れるほど横になっているのだから、眠れという方が無理な話である。 メレキが身を起こすと、アモルはドアを開けた。
「あんたにお見舞いが来てるよ」
「お見舞い?」
「よ、メレキ。もう熱は大丈夫か?」
アモルの後ろから入ってきたのはエウリだった。 四日前に助けてもらっているが、メレキはそのことを覚えてないので、エウリに会うのは本当に久し振りである。メレキは慌てて乱れた髪を整えた。
「じゃ、あたしはご飯の準備してるから。出来たら呼ぶよ。エウリも食べていきな」
「最初っからそのつもり」
「けっ。図々しい奴」
言葉とは裏腹に、アモルは楽しそうな笑顔を浮かべていた。アモルが出て行くと、エウリはメレキに視線を向ける。
「で、体の方は?」
「もう、平気」
「そっか。それは何より」
エウリは笑ったが、それは何処か曖昧で完全な笑みになりきれていなかった。その表情からメレキは、次に続く言葉をぼんやりと悟る。 エウリに見えないよう、毛布の下でメレキはぎゅっと拳を握った。
「それでさ、メレキ。病み上がりで悪いんだけど、訊きたいことがあってさ。あの…」
「あの路地で何があったのか、知りたいんでしょ?」
メレキが言うと、エウリは諦めたように肩をすくめた。
「お見通しか…。昨日、マーヴィの所に行ってきたんだ。イェシルがずっと帰ってないらしい。 あんた、熱に魘されながらイェシルの名前を呼んでたんだ。だからさ、何か知ってるかと思って」
メレキはうつむく。 真実を話す覚悟は出来ていたものの、息苦しさを覚えずにはいられなかった。
「……イェシルは、死んだよ。殺された。私の目の前で」
囁くような声で、告げる。エウリは辛そうにメレキから視線を逸らしたが、メレキの答えを全く予測していなかったわけではないようだ。 やがて落ち着いた静かな声音で、重ねて訊ねてきた。
「誰に殺された?」
「分からない。顔は見えなかった」
「…そっか」
エウリは立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「何処に行くの?」
「マーヴィの所だ。このこと、黙ってるワケにいかないだろ」
「私も行く」
「あんたはいいよ」
にらむような眼差しで、エウリはメレキを制した。 だが、メレキは大きく首を横に振る。
「イェシルを助けられなかったのは、私の所為だから。私が言わなきゃいけないことだって、そう思うから」
「あんたの所為なんかじゃ――」
「私の所為だよ」
 それは臥せっていた四日間考え続け、メレキが出した一つの結論だ。
 メレキはイェシルを路地で見つけたにも関わらず、冷たくなっていく彼女を見下ろすことしか出来なかった。 過去の恐怖に囚われて、声一つ出すことも出来なかった。
 もしも自分がそんな壁を越えられていれば、最悪でもイェシルの亡骸をマーヴィの許に返すくらいのことは出来たかもしれない。
「後悔してるのか?」
「…うん」
「そっか。……俺も、後悔してるかも」
 メレキに一瞥もくれないまま、エウリが呟く。
 その時階段下から、夕食の時間を知らせるアモルの元気な声が聞こえてきた。

            ***

 刃のように細い月が浮かぶ空の下、シャングリ・ラの街は戦場の跡になったように物音一つ聞こえなかった。
「不気味だね。この街の夜が、こんなにも静かになるなんて」
 アモルが不安そうに呟く。その隣でエウリは俯いていて、メレキは震える感情を抑えるのに必死だった。
 夕食を終えた三人は、『ロスト・シープ』に向かっていた。 勿論もちろん、マーヴィにイェシルが死んだ事実を告げに行くためである。 最初はメレキとエウリが二人で行くつもりだったのだが、心配したアモルが一緒に来てくれたのであった。 心強かったが、しかし、メレキの心臓は緊張で爆発寸前だ。
 ほとんど喋らないまま、三人は『ロスト・シープ』のドアの前に到着する。 いつもならばもう開店している時間なのに、店に明かりはなく、人の気配もなかった。
 メレキはドアに手を掛け、鍵がかかっていることに気が付いた。
「留守…?」
「まさか。イェシルの帰りを一日中待ってるのに、あいつが出掛けたりするはずない」
 エウリはメレキの前に進み出て、ドアをノックする。
「マーヴィ、いるんだろ? 俺だ。エウリだ。メレキとアモルも一緒だぜ」
 返事はない。だが、不意にドアの隙間から微かな明かりが漏れた。
 コトリと杖を床に置く音。マーヴィの気配。
 ドアはゆっくりと開き、銀髪の青年は、疲れ切った目でメレキたちを捉えた。
「こんばんは、みんな…」
 弱々しい笑顔。いつになく静かな声音。
「マーヴィ。お前、大丈夫か?」
 エウリは杖を拾い、マーヴィがカウンターまで歩いて行くのを手伝う。 一歩進むごとによろめくマーヴィは、今にも倒れてしまいそうだった。イェシルに対する心労というのは、マーヴィにとってこれほどのものなのだろうか。 …何となく、それだけではない気がした。
 エウリはカウンターに入り、マーヴィを椅子に座らせる。メレキとアモルは、その向かいに腰を下ろした。 相変わらずメレキの心臓は激しく鼓動している。 今ここで弱り切ったマーヴィにイェシルの死を告げるということは、とどめを刺すようなものだと思った。
「熱を出して倒れたって聞いたよ。もう体は平気?」
 メレキは驚いてマーヴィを見上げる。この状況で他人を気遣おうとするマーヴィの言葉が、メレキには嬉しくも苦しかった。
「マーヴィこそ、大丈夫なの…?」
「僕? 僕は別に、大丈夫……じゃないか。正直、かなり参ってるよ」
 マーヴィは肩を竦め、ふっと笑う。自分を嘲るような、マーヴィには似合わない笑い方だった。
「それで、何の用かな? 何の理由もなしにここに来たわけじゃないんでしょ?」
 マーヴィはいつもと変わらない調子で問う。だが、その目には隠しきれない不安が確かに宿っていた。 メレキは強く目を閉じ、静かに深呼吸してからマーヴィを見つめ直す。そして、ついに覚悟を決めた。
「私…あなたに、話さなきゃいけないことがあるの」
「何?」
 マーヴィの顔から笑顔が消える。しかし、もうメレキは躊躇ためらわなかった。 話を長引かせれば、それだけマーヴィを深く傷つけてしまう気がしたから。
「マーヴィ…。イェシルが殺されたの。私、そこに居合わせていて」
 マーヴィは黙ったまま、視線を落とす。表情は先程と変わらない。胸がきゅっと痛んだ。それでも、メレキは震える声で続ける。
「イェシル、胸を刺されて。なんだか分からないけど、光の粒になって、死体も残らなくて。 誰がやったのか、顔は見えなかった。私……何にも出来なくて」
「…そうか。イェシルは、死んでしまったんだね」
 マーヴィは苦しそうに、左手で頭を抱えた。
「ごめんなさい…。私、もしかしたらイェシルを助けられたかもしれないのに…!」
「気にしないで、メレキ。君は何も悪くない。君は、何も…」
 マーヴィは立ち上がると、ふらふらと食器棚の前まで歩いて行き、がくりと肩を落とす。 自分を落ち着かせようとしているのか、メレキたちに背を向けたマーヴィは何度か深く息を吸った。その度に、背中が大きく震える。
「メレキ。間違いはないんだね? 本当に、イェシルは殺されてしまったんだね? もう、ここには帰ってこないんだね?」
「……うん」
 頷くことしか出来ない自分が、とても残酷な人間に思えた。
「そうか…。そうなんだ…。イェシルは、もう――」
 硝子ガラスが砕け散る、激しい音。
 はっと振り向くと、瞳に激しい怒りと哀しみを宿して、食器棚を殴りつけるマーヴィの姿がある。 メレキたちが目をみはる中、マーヴィは狂ったように叫んだ。
「どうして……。どうしてイェシルが殺されなくちゃいけないんだよ…! あいつが、あの男が狙っているのは、僕なのに!  どうして僕じゃなくて、イェシルの方が殺されるんだよ!!」
「マーヴィ、やめろ!」
 エウリが駆け寄り、暴れるマーヴィを押さえ込もうとする。しかし我を失ったマーヴィは、手にしていたグラスで躊躇いなくエウリに殴りかかった。
「っ!?」
「エウリッ!」
 体勢を崩したエウリは壁に背中を預け、そのまま倒れるように座り込む。額を押さえるエウリの指の間から、鮮血が流れ出した。
「やめて…!」
 目を見開いたまま、メレキは立ち尽くす。マーヴィの叫びが、流れる血が、怖かった。深い哀しみが人を変えてしまうことを、メレキはよく知っている。
 だから今、鎖で締め付けられるように胸が苦しい。
「もうやめな、マーヴィ!」
 不意を衝いてアモルが飛び出し、後ろから抱き締めるようにマーヴィを押さえた。
「こんなことしたって仕方ないでしょ!? 今のあんたのこと見たら、イェシル、哀しむよっ! 分かるでしょ、マーヴィ!」
「くッ…!」
 マーヴィは力を失い、ふらりと床に膝を着く。険しい瞳からは涙が溢れていた。アモルはマーヴィの肩をそっと抱き寄せる。
「あたしの宿においで。ここにいると、イェシルのこと、何度も思い出しちゃうから」 
 アモルは優しくマーヴィの背中をさすりながら、立ち竦むメレキに目をやった。
「エウリのこと、頼んだよ」
 メレキは黙って頷き、エウリの許に駆け寄る。だが、メレキが手を貸そうとすると、エウリは血で汚れた手を振ってそれを断った。
「俺は平気だ、メレキ。心配なのはマーヴィの方」
 振り返ると、マーヴィは瞳を閉ざし、アモルに体を預けてぐったりとしている。 さっきと比べて様子が変だった。エウリは立ち上がってマーヴィの側に寄り、蒼白なその顔を覗き込む。
「まずいな、早く寝かせてやらないと」
「どういうこと?」
 アモルが戸惑ったような目をエウリに向けた。
「…マーヴィとイェシルは、サバハの魔女だ」
「!」
 メレキの心臓が凍り付く。エウリは構わず言葉を続けた。
「マーヴィはシャングリ・ラに来る前、サバハで魔力を暴走させちまったことがあるんだ。ハーフの魔女だから、うまく力を制御できなかったらしくて。 その後遺症で、マーヴィの体は日々弱っていく。呪いみたいなモノだ。 今まではイェシルの魔力で進行をほとんど止めることが出来たんだが、イェシルを失った今、マーヴィは――」
「待ってよエウリ。魔力の暴走ってどういうことなの? あんた、何を知ってるの?」
「他人の過去には触れない。それがここのルールだろ? 本人の口からならまだしも、これ以上のことが俺の口から言えるか。ほら、急ぐぜ。宿に行くんだろ?」
 エウリはそれ以上何も言わず、マーヴィを背負って歩き出す。既にマーヴィの意識はなく、メレキの胸に不安が広がった。

            *** 
  
 アモルの宿のカウンター席に座り、メレキは何をするわけでもなく佇んでいた。
 不意に客室のドアが開き、中からエウリが出てくる。 メレキは反射的に立ち上がり、いて訊ねた。
「マーヴィは!?」
「とりあえず、今のところは大丈夫。眠ってるよ」
 エウリはメレキに、座れよ、と促す。メレキは黙って頷き、また元の席に腰を下ろした。エウリがその隣に座る。
「これからどうなるか、不安だな…」
「マーヴィは死んでしまうの?」
 メレキの問いにエウリは頷かず、しかし否定することもしない。
「今夜は、アモルが側で看病してくれるってさ」
 エウリはただ、誤魔化ごまかすようにそう言った。 メレキはやり切れない思いで瞳を伏せる。
「また、だね…。私、また何も出来ない」
 イェシルのためにもマーヴィのためにも、何も。 ラルゴを亡くしたときだって、メレキは自分の無力さに打ちひしがれるばかりだった。
「何も出来ないのに、私、人には迷惑かけるの。アモルにも、あなたにも。言うのが遅くなっちゃったけど……また助けてもらってしまって、本当にごめんなさい」
 深く頭を下げると、緑の宝石が光る腕輪をしたエウリの手が、静かに肩に乗せられる。はっとして顔を上げると、エウリは困ったように笑っていた。
「謝るよりも礼を言った方がしっくりくる場面って、結構いっぱいあるんだぜ?」
 メレキはどうしたらいいのか分からず、また俯く。礼を言ったってきっと、自分にはいつもの無愛想な表情しか出来ないのだ。
 黙ったままでいると、肩に置かれたエウリの手にぎゅっと力が込められた。
「何があんたをそんなに苦しめる? 過去――ラルゴとの思い出か?」
 その言葉にメレキはひやりとする。息を呑み、エウリの顔を見上げた。
「どうして、エウリが…!?」
 メレキはアモル以外の人間に自分の過去を話したことはない。ラルゴの存在など、エウリが知っているはずがないのだ。
「熱で魘されてたとき、あんた、ラルゴって奴のこと何回も呼んでた。だから、気になってアモルに訊いちまったんだ。ゴメンな」
「別に…」
 知られてしまったって、何の問題もないことだ。隠す理由なんか何処にもない。ただ、複雑な気持ちだった。
「ラルゴって、あんたのことを拾ってくれた人なんだろ? あれだけ呼んでたんだから、きっといい奴だったんだろうな」
「…うん」
 顔をしかめ、メレキは頷く。
 ラルゴの優しさを思い出すと、その分だけ彼を失ったときの痛みが蘇ってくる。 だからいつも、彼を思い出すのは辛いのだ。あんなに幸せだったのに、今はもう笑えない。
 黙り込んだメレキの背に、エウリがそっと片手を回してきた。突然のことに、どきんとする。けれどもその手は、不安を溶かすように暖かい。
「なぁ、メレキ。俺って、そのラルゴって奴に似てたりする?」
「エウリが?」
 メレキは目を瞬き、考える。どうだろうか。二人とも、言動が粗野なところはあるけど優しくて――確かに、共通するところはあるかもしれない。
 けれどもラルゴはラルゴ、エウリはエウリである。
「どうしてそんなことを訊くの?」
「ちょっと、確かめたくてな」
 メレキは小首を傾げる。エウリが言うことは、時々分からない。
「とにかく、少しは元気出たか?」
 エウリに言われ、メレキは胸の中のわだかまりが迷子になってしまっていることに気が付いた。 不安なことは沢山あるはずだが、いつの間にか気持ちがすっきりしている。 この状態がいつまで続いてくれるか分からないが、さっきよりも楽になったのは確かだ。
「少し、落ち着いた」
「それは良かった。じゃあ、今日は俺、もう帰るよ。明日また来る。マーヴィのこと、よろしくな」
 エウリが席を立つ。メレキはそれを見送りかけたが、一つ、大切なことを思い出した。
「エウリ。あなたの怪我の手当てが、まだ」
 痛がる様子を見せないから、忘れてしまっていた。エウリは額を切ってしまっていたはずである。
「ああ、怪我な。へーき、放っておけば治るよ」
「でも、消毒くらいは」
「問題ないって。またな、メレキ」
 エウリはひらひらと手を振り、宿を出て行ってしまう。
 残されたメレキは、小さく首を傾げた。
 メレキに笑いかけたエウリの額に、傷が見当たらなかったような気がしたのだ。



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