命秤


 一人の騎士が、馬の上から惨状を見下ろしていた。普段は緑の香りを漂わせる草原に、今、生々しい血の臭いが立ち込めている。
──たった今、一つの戦乱が終わりを告げたのだ。
騎士は、馬を下りた。草を踏む音が、凍りついた静寂の空間に響く。騎士は傷ついた足を運び、拳をぎゅっと握って、目をそらしたくなるような現実に立ち向かった。
足下に転がる、獅子の装飾が施されたかぶと──それが自分の王のものであるのは、分かっている。けれどもその事実を認めようとすると、吐息が震えた。
王は命懸けで戦い、敗れた。同胞は王を守る盾となって、次々と命を落とした。それなのに何故、自分だけが、こうして生き残っている──?
「お前が最後の一人か」
突然浴びせられた声に、騎士は、はっと振り返った。立っていたのは、敵軍の鎧に身を包んだ、初老の男。最後の獲物を仕留めに来たのだろう。
「剣をとれ」
男の言葉を無視し、騎士は顔をうつむかせる。 
「こちらの王は死んだ。もはや俺に、あんたを殺す理由はない。…俺が生き残る理由もない!」  
 鞘から剣を引き抜くと、騎士はそれを草の上に投げ捨てた。ここを死に場所とすることを決意したのだ。
「俺を殺せ! 王を死なせて自分だけ生き残るなんて、恥だ!」
騎士の言葉を聞くと、敵軍の男は落胆したように首を横に振る。
「こちらの王も殺されているのだ。私にも、お前を殺す理由はない。…お前に殺されてしまおうと思ったのだがな」
 その言葉を聞くと、騎士は屈み込み、仕方なしに、一度は捨てた剣に手を伸ばした。相手の命を奪う気になったのではない。 相手にこちらを殺す気がないのなら、自分で自分の命を絶つまでだと思ったのだ。
 騎士になったその日から、戦場で死ぬ覚悟は出来ている。だから躊躇いはなかった。
 しかし思いがけなく、騎士の伸ばした手は、剣に届く前に払われる。驚いて顔を上げると、 敵軍の男が騎士を睥睨へいげいしていた。無理矢理取り繕ったような険しい瞳で、 騎士を牽制けんせいしようとしているようだった。
「お前は、自害するつもりか」
「主も同胞も失った騎士に、他にどんな道がある!」
 騎士の言葉に、男はその眼差しを一層鋭くした。
「道は、いくらでもある。お前のような若者にならば」
 諭すような、声音。
「剣を私に譲ってくれないか? その剣は、ひどく刃こぼれしている。あと一人斬るのが関の山だろう。
 お前と同じく、私も王と同胞を失っている。だがお前と違って私には、未来などもう長くは残されていない。この哀れな老人に、死に場所を与えてくれ。 私は、自分を殺すための短剣さえ失ったのだ」
「俺よりも、あんたが生き残るべきだ! あんたは長い間、王に忠誠を誓ってきたはずだ。きっと王は、自分の所為であんたが死ぬことを喜びはしない!」
「忠誠を誓ってきたからこそ、王と共に眠るのだ。私はあちらでも王にお仕えするつもりでいる」
「それは、俺も同じだ!」
 騎士と男は、そのまま無言で睨み合った。真っ直ぐな忠誠心を持つが故、もはや敵対する理由のなくなった相手の命を尊ぶが故の、沈黙。
 だがその無言の対決も、やがては終わりを告げる。
 
「命が重い方が、生き残ればいい」

 突然聞こえた少女の声が、二人の睨み合いを止める。驚いた騎士と男の目の前に、何処から現れたのか、 地面を引きずるような黒衣を纏った少女が立っていた。
「命の重さを測ればいい。二人の命を測って、重い方が生き残ればいい」
 少女は大切そうに、小さな天秤を抱えている。
「誰かの娘か? ここはお前のような子供が来るところではないぞ?」
 男はそう言ったが、少女は退く様子を見せない。ただ何か見透かすような真っ直ぐな目で、男と騎士の目を見つめるのだ。
「『命秤いのちばかり』を持ってきた。二人の命を測ってあげる」
「命を測るだと? ふざけるな! 遊びに付き合ってる暇なんて…――!」
 少女に向かって腕を振り上げた騎士を、男が制した。
「やめろ。いいじゃないか、ぜひこの子に命の重さを測ってもらうとしよう」
 騎士は腑に落ちない顔で、男を見る。男は、なんだか疲れたような表情をしていた。 死に場所を得るためなら、もうどんなやり方であろうと構わないさ――男の横顔は、そう語っているようでもあった。
「どうやって測るんだい?」
 兵士らしくない穏やかな老人の声音で、男は少女に問う。
「天秤のお皿に、手をかざすの」
 少女は天秤を地面に置いた。
「どうぞ」
 まずは男が屈み込み、皿の上に手を翳した。すると驚くことに、片方の皿が深く沈み込んだのだ。
「命がちゃんと、お皿に乗ったね。そっちの騎士さんも、早く」
 急かされるまま、騎士ももう一方の皿に手を翳す。するとその途端二つの皿は、大きく上下し始めた。 二つの命を乗せて、ゆらり、ゆらりと。少女は微笑んで、その様子を見ている。
 騎士と男は逆に、表情を強張らせた。これは、所詮子供の遊びに過ぎないのかも知れない。 本当に命が測れるなんて、心の何処かでは信じていないのだ。でもこれでどちらが生き、どちらが死ぬかが決まる。そう思うと、体中に緊張が走って仕方なかった。
 やがて皿の揺れは小さくなる。翳した手は震え、額から汗が流れ落ちた。
 柔らかな風が、そんな二人の間を通り過ぎていく。
「そろそろ、止まるね」
 少女の言葉を聞いて、男が祈るように目を閉じた。騎士もまた、瞑目する。 
 天秤は微かな音を立てながら、小刻みにゆらゆらと揺れている――

「天秤、止まった」

 少女の声に、二人は同時に目を開けた。
「どっちだ…!? どっちが重い…!?」
 いて訊ねた騎士に返ってきたのは、少女の、ふてくされたような笑み。
「どっちも、だよ。騎士さん」
 
 ――天秤は寸分の違いもなく、ぴったりと釣り合っていた。

             ***

 結局生き延びた騎士と男は、それぞれの故郷に帰った。 王を亡くした戦乱を境に国どうしで争うこともなくなり、血生臭い生活を離れた騎士は、妻子を持って自由奔放な生活を送っている。
 あの敵軍の男は、故郷に帰ってしばらくした後で、天寿を全うしたと聞いた。 騎士はそれを残念に思ったが、兵士でありながら優しげな瞳を持ったあの男には、戦場で死ぬよりも温かい家族に囲まれた最期の方が似合っている。 …きっと、これで良かったのだ。

 後で知ったことなのだが、戦乱の起こった地には、こんな言い伝えがあった。
 ――戦の後には必ず、決して釣り合わない天秤を持った黒衣の死神が現れて、無差別に命を測っては、軽い方の命を狩っていく――
 それが本当なのかどうかは分からない。 でも、もしそれが本当で、あの時『命秤』を持って現れた少女がそれだとしたら、あの敵軍の男と自分の命が釣り合ったのはどうしてだろうか?
 騎士は、こう考えている。あの時揺れる天秤を止め、二人の命を釣り合わせたのは、それぞれが忠誠を誓った王の霊だったのではないかと。 王は決して、騎士たちを捨て駒のように扱いはしなかったから。
 教会の鐘が鳴り響く。一日の始まりの、祈りの時間を伝える鐘だ。 皆がひざまづき、 手を組む中で、騎士はただ一人違う姿勢をとる。王に謁見するときのように片膝を地に着け、頭を垂れ、祈りの言葉の代わりに、無言で報告する。
 ――王がお救いになった命は今日もこうして生きています、と。


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