永遠の片想い


 この一週間ほど、バイト先の居酒屋では失敗続きだ。私は重い気持ちでマニュアルを読み返していた。もう勤めて半年になるのに。最近は私を咎める度に、店長の語気が強まっているのを感じずにはいられない。いい加減、何とかしなければならない時に来ているのだ。
 それなのに、マニュアルの文字は私の頭の中に全く入ってこなかった。なんと言っても、頭の中には先客がいるのだ。それはずっと前から私の脳裏に巣くっていたけれど、この一週間で勢力を増してきた厄介な病原菌だ。しかし、確かに私が呼び寄せてしまった病原菌だ。
 マニュアルに集中できず、私は気分転換をしようと思い立った。とりあえず、ゆっくりお風呂にでも入ろう。机の上の電気を消すと、私は椅子から立ち上がった。
 携帯電話の着信音が鳴り響いたのは、その時だった。
 穏やかで、けれども今の私には残酷なメロディ。
 それは、あの人からのメールを受信したときにしか鳴らない着信音だった。

  
「……でも、予想してたわけでしょ? スッキリして良かったじゃん。それに、祐司先輩はお前を突き放したわけじゃない。『これからもいつも通り接するからね』って、書いてあるじゃん。奈緒も今まで通りにしてればいいんだよ」
 お茶に付き合ってくれた幼馴染みの淳也が、私の携帯電話に届いたメールを見ながら言った。励ますのが下手な奴だと思った。
「いつも通りって……みんなと同じように扱われるのが嫌だから、特別な関係になりたいから、頑張って告白したんじゃないの」
 答える私の声は既に湿っぽい。アイスコーヒーのグラスに自分を映したら、目が赤くなって化粧も落ちていた。私のすっぴんを知っている淳也の前でなかったら、決して晒せない顔だ。
「何も、恋人じゃなくたっていいのよ。少し特別な関係になって、お互いを想い合うことができれば…」 
「でも、先輩はもうお前に答えを出したんだよ。それでもお前はまだ、先輩にしつこく言い寄るつもり? どうしても好きなんです、あなたじゃないと駄目なんです、好きじゃなくてもいいから何が何でも付き合ってください、って」
「それは…」
 私はうつむいて、そのまま沈黙する。

 話の発端は、半年ほど前に遡る。大学に入学し、テニスの同好会に入った私は、二つ年上の同好会会長、祐司先輩に出会ったのだ。
 最初は、特別な意識は何もなかった。何人もいる同好会の先輩の中の一人という、それだけの存在だったのだ。そんな祐司先輩を見る目が変わったのには、ある事件がきっかけとなっている。
 それは、七月のことだった。私は熱を出して、同好会を何日も休んだ。友達がいないわけではなかったが、皆、テスト前の忙しい時期である。私の体調を心配するメールは何件か届いたが、アパートまでやって来て看病してくれるような人までは、さすがにいなかった。
 私は基本的に健康体である。熱など滅多に出さない。しかし、その時は例外だった。まともな食事は摂れないし、足下はふらつく。しかしテストを控えた友達を呼ぶのも気が引けて、一人で何とかしようと強がっていたのだ。
 その時、唐突にやってきたのが祐司先輩だった。アイスクリームを手に、ふとお見舞いに来てくれたのだ。同好会のメンバーに、私が祐司先輩のアパートの近くに住んでいることを聞いたらしい。
「最近ずっと来てなかったから、どうしたのかと思ってさ」
 同好会のメンバーは、決して少なくない。その中で、入って間もない一年生の私を覚えていてくれたこと、そして心配して来てくれたことが嬉しくて仕方なかった。弱って心細い思いをしていた私は、思わず祐司先輩の前で泣いてしまったほどだ。先輩は驚いていたが、私に接する態度は何処までも優しかった。
「奈緒ちゃんは一人暮らし、まだ慣れてないもんね。こういう時は助け合わなきゃ。俺は会長だし、みんなを支えることが務めだと思ってる。いつでも頼ってくれていいからね」
 ありがちとも言えるかも知れないけど、祐司先輩の優しい言葉が、私の彼を見る目を変えたのだ。
 それから夏休みに入り、同好会で会う以外にも、祐司先輩とは色々な方面で付き合いがあった。メンバーの何人かと一緒に、花火を見にも行った。カラオケで朝まで騒いだりもした。祐司先輩と過ごす時間は本当に楽しくて、きらきらしていて、私はいつの間にか彼に特別な感情を抱いていた。いわゆる、恋心というものである。
 そんな意識が芽生えてしまうと、だんだんと私は祐司先輩に会うのが辛くなっていった。何故なら、祐司先輩は誰にでも優しかったからである。練習中に怪我をした子がいれば車を出して送ってあげるし、誰の前でも元気で明るい。私の心には、祐司先輩の優しさを独占したいという、貪欲な感情が生まれ始めていたのだ。
 はっきり言って、祐司先輩が私に対して何も特別な感情を抱いてないことは分かっていた。それに、彼女こそいないものの、祐司先輩がどれだけ人気のある人かということも。それ故、私は一度はこの感情を封印しようとしたのだ。しかし、募りに募った想いは簡単に抑えられるものでもなかった。
 そこで私はついに、この恋に決着をつけようと思い立ったのだ。
 日付は、クリスマスイブを選んだ。ロマンチックな雰囲気を作りたかったというよりは、自分への戒めのつもりだった。
 その日、幸運にも同好会の練習が入っていた。だからその後に先輩を呼び出して、面と向かって想いを伝えるつもりだった。しかし、直前になって怖くなって、私は急遽、想いを伝える手紙を書くことにした。書き始めたのは、先輩に練習で会うたった一時間前。それなのに、率直に想いを書き殴ったら三〇分ほどで仕上がってしまった。こういう手紙は本来、毎晩寝ずに考えて、真剣に推敲するべきものなのに。
 それに、手紙という手段を直前まで考えていなかった私は、便箋一枚持ち合わせていなかった。手紙を綴ったのは、その日ポストに届いていた広告の裏側だ。しかも、その広告というのがクリスマスのパーティフードの案内である。なんという皮肉なのだろう。
 とにかく手紙を用意した私は、練習の間ずっと、祐司先輩と二人きりになれるタイミングを見計らっていた。そして祐司先輩がジュースを買いにコートを離れた瞬間、私は手紙を持って駆け出したのだ。
「連絡事項があるんです。後でこれ、読んでください」
 その返事が、五日間の時を経て、昨日受信したメールにあたる。

「ごめん、俺、用事あるから帰るわ」 
 突然淳也が席を立った。
「何よ、急に。用事があるなんて一言も言ってなかったじゃない」
 私はむっとして言った。きっと、この気まずい沈黙が嫌になったに違いない。
「だって、年末だぜ? いろいろあるんだよ。俺も。ま、お前も頑張れや」
 会計は俺がしておくから、と言い残して、淳也は行ってしまった。長居する意味もないので、淳也が喫茶店から遠ざかるのを窓から確認した後で、私も席を立った。
 帰り道の足取りは重かった。祐司先輩が、淳也みたいな存在だったら良かったのかもしれない。恋人ではないけど何でも話せて、笑いあえて。特別な目で見て、特別な想いで好きになってしまったから、こんなに苦しい思いをするのだ。これから祐司先輩と、どんなふうに付き合っていけばいいのだろう。
 信号が赤になったので、私は足を止めた。ぼーっと横断歩道の向こう側を見た瞬間、私は心臓が止まりそうになった。
 祐司先輩だ。男友達と三人で一緒にいる。先輩は三人で話をしながら、楽しそうに笑っていた。私を何度も元気づけ、同時に苦しませた笑顔に、私は胸の高鳴りを抑えられなかった。
 信号が青になる。逃げようと思った。祐司先輩の目が私を捉える。逃げられなかった。
「奈緒ちゃんじゃないの。最近練習なかったから、久し振りだね。俺、これから帰省するんだ。良いお年をね」
「あ、はい…。あの、祐司先輩も………良いお年を」
 祐司先輩は、いつもと同じ笑顔で、声で、私に話しかけ、通り過ぎていった。五秒ほどの会話の間、私は足を動かして前に進んでいたが、心はそこで時を止めていた。
 横断歩道を渡りきった後で、私は足を止めた。
 涙が、頬を伝った。
 祐司先輩は、いつも通りだった。残酷なほど、いつも通りだった。だが私は、心の何処かで何かを期待していたのだ。
 少しは私を意識して、違う目で見てくれないかと。手紙を読んだ感想の一つでも、話してくれないかと。
 しかし、祐司先輩は手紙を渡す前と何も変わっていなかった。 淳也の言葉が甦った。祐司先輩の中で、この件については既に綺麗に精算されているのだ。引き摺っているのは、私だけだ。
 それでも、簡単にこの気持ちを終わらせることができようか。
 振り返って横断歩道の向こう側を見ると、私に会う前と同じように、友達と楽しそうに話している祐司先輩の姿があった。
 私はその背中を見つめながら、無言で自分の想いを伝えることにした。ほとんど、自分に言い聞かせるように。この言葉が届かないことは分かっていても。育んできたこの想いを、私は大切にしたかった。
 
 祐司先輩。まだ、片想いさせてください。
 この気持ちは、私が誰か素敵な人に出会ったときに、もしくは祐司先輩が素敵な彼女に出会ったときに、綺麗に消えるのかも知れません。
 もしかしたら、自分でも気が付かないうちに、時が経てばふと消えてしまうのかも知れません。
 でも今、これだけは言えます。現時点では、この想いが永遠のものだと言うことです。
 この気持ちが片想い以上のものにはならないということは理解しています。でも、ごめんなさい。今は、正直な私の気持ちを大切にさせてください。
 まだ、あなたが大好きなんです。

 祐司先輩は、振り返ることなく人混みの中に消えていった。
 私は、静かに家路についた。
  

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