2.光と闇が織りなす夢
目を覚ましたとき、メレキはそこに虚しく広がる空がないことに驚いた。
背中にも硬い地面の感触はなく、心地よい温もりがある。手足には虫が這う代わりに、毛布がまとわりついている。
身を起こして髪を梳いても、いつものように土や砂が落ちてくることはない。
メレキはベッドから立ち上がった。二本の足に乗せられた体の重みを感じ、自分がここに存在していることを確認する。
シャングリ・ラという街に来たのも、アモルという少女の宿で働くことになったのも、夢ではないのだ。
メレキは譲ってもらった服に着替え、部屋を出て階段を下りる。アモルは既に、朝食の準備を始めていた。
「おはようメレキ。服のサイズ、大丈夫だった?」
「うん」
アモルが用意してくれたワンピースはわずかに袖が長かったが、特に目立った問題はない。
所々に入った刺繍も、綺麗だが派手ではなく、シンプルなデザインを好むメレキの趣味に合っていた。
「良かった。そのワンピース、衝動買いしちゃったんだけど着なくてさ。他にもあるんだよね。そういうの、メレキに全部あげるから」
「ありがとう」
メレキが言うと、アモルは少し驚いたような顔をした。だが別に何も言ってこないので、それ以上は気にしないことにする。
メレキはカウンターに入り、卵を割るアモルの隣に並んだ。
「何を手伝えばいい?」
「ん、ええと……そうだ。そこにある野菜、切ってくれる? サラダを作るんだ」
メレキは頷き、包丁を取った。料理をするのは久し振りだ。
一定のリズムで野菜を刻んでいくと、アモルが感心したようにメレキの手許を覗き込んだ。
「慣れてるね」
「うん」
よく母の手伝いをしていたから――続けて言いかけて、黙り込む。母、という単語を頭に思い浮かべたとき、ちくりと胸に痛みが走ったからだ。
「どうしたの?」
野菜を切る手が、いつの間にか止まっている。
何でもない、と言って再び野菜を切り始めると、アモルが訝しそうにメレキを見た。
「もしかしたら昨日、よく眠れなかった?」
「どうして?」
「だってあんた、死んだような目、してる」
意味が分からずに、小さく首を傾げる。確かにすぐに眠れなかったのは事実だが、死んだような目になるほど自分は疲れていない。
いや、それ以前に死んだような目とはどういうものなのだろう。
「午後は客が来るまで時間があるから、一緒に買い物に行こうと思ったんだけど……疲れてるなら、明日にするよ?」
労るような優しい声音で、アモルが訊いてくる。
「大丈夫。少しも疲れてなんかいないから」
何の感情も込もっていない声で、メレキが答えた。
***
午前中は掃除や洗濯を手伝い、午後は朝言われた通り、二人で買い物に出かけた。
昨日は戸惑って周囲をじっくり観察している余裕もなかったが、今日改めて見ると、アモルの宿はなかなか広い通りに面していることに気が付いた。人通りも多い。
「賑やかだろ?」
メレキは食い入るように街を眺める。何処も騒がしく、笑い声が溢れていた。
一度死んでしまったような景色ばかりが広がるアクシャムでは、もう何年も見られない光景である。
その時、メレキはふと奇妙な親子連れを見つけた。
母親と、小さな子供が二人。一目見ただけでは普通の親子連れだが、少し考えれば、すぐに変だということに気が付いた。
三人とも髪の色が違うのだ。母親は黒髪、子供はそれぞれ茶髪に金髪だ。よく観察すれば、三人とも目の色も違う。そこまで違えば当然、顔つきも違っていた。
「メレキ、何見てるんだい?」
「あの親子連れ。…きっと、本当の親子じゃない」
「そうだね」
相槌を打ったアモルの声は、落ち着いていた。
「珍しいことではないの?」
「珍しくなんてないさ。むしろ、親子や兄弟でシャングリ・ラに来たって話の方が少ないよ。
ここに来た子供はみんな、自分で新しい親や兄弟を捜すんだ。メレキだって、望むならあたしの妹になってもいいんだよ?」
メレキはどう応じていいのか分からなかった。
「誰だって失った人の代わりになれるんだよ、ここでは。あの親子連れだって幸せそうでしょ? きっとあの女の人も、ここに来る前は子供がいたんじゃないかな。
でも、ここで新しい子供を見つけて、その哀しみを癒してる」
メレキは黙ってアモルの話を聞いていた。
――誰だって、失った人の代わりになれる。
アモルの言ったフレーズが、頭の中で残酷に響く。
「…私は代わりなんて要らない」
「そう? まぁ、人それぞれかもしれないね。さて、まずは貨幣の価値から教えなきゃいけないかな」
メレキの言葉を軽く流し、アモルは財布を取り出した。
中から三枚のコインを取り出し、掌に並べてみせる。
「一枚目はこれ。シュタイラ銅貨」
三枚の中で最も小さなそのコインには、細かく星が彫り込まれていた。見たことのないデザインだ。
「アクシャムとは通貨が違うの?」
「そう。シャングリ・ラには、シャングリ・ラの通貨がある。一番価値が低いのが、これ。そしてこれが15枚集まると、こっちのリューナ銀貨一枚と同じ価値になる」
アモルは次に、銅貨よりも一回り大きい、三日月の彫られた貨幣を指さした。
「さらにこれが15枚集まると、今度はこれよ。スラーイ金貨」
最後にアモルが指し示した貨幣には、太陽が大きく彫られていた。
「安いパン一個が、シュタイラ銅貨二枚か三枚くらいで買える。ここの物価は、買い物に慣れてくればおのずと分かってくるよ。
ちなみにメレキの一日のお手当は、リューナ銀貨一枚ね」
リューナ銀貨一枚――シュタイラ銅貨15枚の価値。大体、安いパンが五個ほど買える値段だ。少ないかもしれないが、身の回りの面倒を見てもらうことを考えれば妥当な金額だろう。
「じゃ、早速今日の買い出しに行くよ」
「うん」
アモルの後について、メレキは歩き出した。
***
アモルの買い物は二時間ほどかかった。十軒ほど店を回ったのだろうか。その間に二人の両手は、食品や生活用品が詰め込まれた袋でいっぱいになっていた。
「いつもこんなに買うの?」
「今日は安売りの日だし、あんたにとって初めての買い物だったから、特別さ。早く店の場所を覚えてほしいんだ。
明後日くらいまではあたしが付き添うけど、その次からは一人で行ってもらうよ。二人で手分けして店を回れるようになれば、効率がいいからね。それじゃ、今日の買い出し終わり!」
アモルは元気にそう言うと、メレキの持っている買い物袋を掴んだ。
「私、自分で持って行けるけど」
「いいのいいの! まだ時間があるから、あんたは少し街を見て回ってくるといいよ。さっきのお釣り、あるよね?」
「うん」
メレキが雑貨屋で受け取ったお釣りのシュタイラ銅貨五枚を差し出すと、アモルは可笑しそうに笑った。
「返せ、って言ってるんじゃないのよ。それあげるから、買い物してきなさいよ、って意味。それから、これも」
アモルは荷物を膝の上に乗せ、片手を自由にすると、器用にメレキにコインを投げて寄越した。リューナ銀貨だ。
「今日のお手当。それじゃ、陽が沈む前には帰ってきてね!」
視界を塞ぐほどの荷物を抱え、危なっかしい足取りで、アモルは宿に向かっていく。が、二、三歩進むとアモルは足を止め、メレキを振り返った。
「あんまり遠くには行かないでちょうだい。あたしにも把握できてない場所があるからさ」
「三年も住んでいるのに?」
「そうさ。この街は成長してるんだよ。特に一年前からかな。街が広がるスピードが速くなり始めたんだ。不思議でしょ?
誰も何もしてないのに、突然新しい家が建ったりするの。魔女って奴は、何て言うか器用だよね。
メレキも、手頃な家が建ったらあたしの所なんか出ていって、住み替えるといいのかもね」
メレキは首を横に振った。
「…出て行かない」
その一言に、アモルが何を感じ取ったのかは分からない。
「気遣ってくれなくてもいいのに。でも、ありがとう。助かるよ」
アモルは踵を返し、人混みの中に消えていく。
残されたメレキは、行く当てもなく歩き始めた。買い物を楽しむつもりはない。メレキは今まで、買い物が楽しいものだと思ったことがないのだ。幼い頃住んでいた農村ではほとんど自給自足で、買い物をする機会があまりなかった。『彼』と住んでいた街では、治安の悪さから滅多に外に出ることはなかった。そして放浪するようになってからは、金の余裕がなかった。メレキにとって買い物なんて、生きていくために不可欠な食糧を手に入れるというそれだけの行為でしかなかったのだ。娯楽ではなくて。
適当に歩いて、早く帰ろう――しかしそう決めた矢先に、メレキは思わず足を止めてしまった。
信じられないようなものを見たのだ。
それは、十二、三歳くらいの少女だった。そこに問題はない。問題になってくるのは、その容姿だ。
通りの脇に佇むその少女は、どうしてそうすることにしたのか髪を眩しいほどのピンク色に染め、リボンやフリルでゴテゴテに飾られた黒いパーティドレスを着ていた。
普通の人からすれば、その浮かれた見た目から、関わりたくないと思われる類の人間であろう。
だが、メレキは敢えて立ち止まった。
単純に興味を持ったのだ。常識外れな格好で人前に姿を現すことが出来るという、少女の勇気に。
少女の方も、自分をじっと見つめているメレキに気が付いたのだろう。
何が嬉しいのかニッコリと笑って、二つに結んだ髪を揺らしながらメレキに手を振ってきた。いや――手を振るというよりは、手招きしている。
一瞬迷ったが、メレキは少女の方に近づいた。通行人が、物珍しそうに少女とメレキを振り返る。大きなイヤリングの所為で、人の注目を浴びるのは慣れっこだ。
メレキは気にせずに、少女の前まで歩いて行った。
「いらっしゃいませ、お姉さん!」
少女は片手を胸に当て、大袈裟に頭を下げて挨拶してみせた。青い目が綺麗だ。羨ましいと思った。
「あなたは、何処かの店の客引きなの?」
「違うよ。わたしがお店をやっているのっ!」
とは言うものの、少女の側には店などなければ売るような品物も見当たらない。占い師かと思えば、水晶玉やカードの類もない。
「何の店をやっているの?」
「夢売りっ!」
姿も不思議ならば、言い出すことも不思議だ。
「夢?」
「そう! シュタイラ銅貨三枚で、あなたに夢を見させてあげる!」
もしかしたら、と思った。
「あなたは、魔女?」
その問いに、少女は激しく頷いた。
「そう! わたしはアクシャムの魔女、ラーレ・フェデル! お姉さんもアクシャムの生まれ?」
「…うん」
「それじゃ、仲間だねっ!」
ラーレは嬉しそうだったが、メレキは笑えなかった。
魔女といえば、国を動かす要職に就く貴族のことだ。ラーレほど幼ければ、直接自分が国を動かしているわけではないにしても、身内はきっとそれなりの立場の者だろう。
つまりラーレは、メレキのような農村生まれの少女とは比べものにならないほど恵まれた環境で育てられてきたはずなのだ。
それなのに今、この少女はシャングリ・ラにいる。
「お姉さん、買っていかない? 夢」
ラーレの誘いで、我に返った。ぼんやり考えていたことを頭の外に振り払う。他人の過去を心配するのは、きっとここでは余計なお世話なのだ。
「具体的に、何を見せてくれるの?」
気を取り直して、メレキは訊ねた。
「それは、わたしには分からない。お姉さんが今、一番望んでいるものが見えるの。
同じアクシャムの生まれだっていうなら、銅貨二枚に値引きしてあげる! だから、ぜひっ!」
ここまで言い寄られたら、断るわけにもいかないだろう。それにシュタイラ銅貨二枚なら、痛手にもならない。
「分かった。買うわ」
料金を支払うと、ラーレはメレキの前に手を伸ばした。
「目を閉じて」
指示に従い、瞑目する。メレキを取り巻く空気が暖かいものに変わった気がした。
――目を開けないでね。それじゃ、夢の世界に行ってらっしゃい、お姉さん!
ラーレの声が、遠くに聞こえる――…
「――メレキ、手伝って」
気が付くと、メレキは懐かしい光景の中にいた。自宅の狭い台所だ。
五年前から一度も会っていなかった母が、メレキに皿を差し出して微笑んでいた。
「テーブルに並べてきてちょうだい」
「あ…、はい」
困惑したが、これが夢であることを思い出すと、メレキは母から皿を受け取る。
一瞬触れた母の手が記憶の通りに暖かくて、はっとした。
台所を出ると、手作りの木のテーブルを囲んで、既に家族が座っていた。メレキは三人の兄と父の前に、そして母と自分用に一枚ずつ、皿を並べていく。
一枚、余った。
「お母さん。お皿、多いよ?」
「あら。メレキ、忘れたの? 今日はお客さんがいるでしょ?」
「そうだぜ、メレキ。俺を忘れんなよ」
飄々としたその声を聞いたとき、メレキは心臓が凍り付いたかと思った。
手から皿が滑り落ちる。派手な音を立てて、白い破片が飛び散った。
「ちょっと! 何やってるの?」
母の呆れたような声。しかし、放心状態のメレキの耳には届かない。
「大丈夫ですよ、オバさん。俺が片付けますから」
『お客さん』の青年がメレキの前に屈み込み、皿の破片を丁寧に拾い始める。ある程度集まってくると、青年は思い出したようにメレキを見上げた。
「怪我しなかったか?」
肩に届かぬよう、乱雑に切られた黒髪。目にかかりそうで、見ている方が気になって仕方ない前髪。
歳は二十歳を過ぎているのに、いつまで経っても変わらない、爛々とした少年のような青い瞳。
そして、左耳に光る紫の大きなイヤリング。
「ラルゴ……?」
現実ではもう他界してしまったその青年の名を、メレキは知らないうちに呟いていた。
「なんだよ、メレキ。泣きそうじゃねぇか。何処か切ったのか?」
青年は悪戯っぽい笑みを浮かべる。別にからかっているわけではない。
彼はこういう笑い方しか出来ない人なのだ。死ぬ間際だって彼は、こうやって笑って……
「どうして黙ってるんだよ? 怪我したなら、早く――…」
彼の声が、遠くなる。視界が、霞んでくる。泣いてしまったのかと思ったが、そうではなかった。ラーレの声が聞こえたのだ。
――これで、終わりだよ。いい夢見られた?
現実のざわめきが、帰ってくる。
「目を開けていいよ」
言われるままに目を開くと、メレキは再びラーレの前に立っていた。
「お帰りなさい! ねぇ、どうだった!?」
期待に満ちた目で、ラーレが訊いてくる。
「……うん。すごく、良かった。ありがとう」
メレキは精一杯の嘘を吐き、夢売りの前を後にした。
***
宿に戻ってくると、良い匂いが鼻孔をくすぐった。アモルが夕食を作っている。昨日とは違う顔ぶれの宿泊客が、期待に満ちた目でアモルの手許を見つめていた。
「お帰り、早かったね。もっと遊んできてもよかったのに」
「いいの。もう、充分だから」
充分すぎて、苦しいくらいだから。
「アモル、何を手伝えばいい?」
黙っていると気が滅入ってしまいそうで、メレキはそう言葉を続けた。アモルはメレキの顔を見ることもせず、鍋の中を掻き回しながら言う。
「今は大丈夫さ。部屋でくつろいでいればいいよ。すぐにご飯できるから、その時に呼びに行く」
「分かった」
それは、とてもありがたいことだった。ちょうど、一人になりたいと思っていたから。
***
部屋に戻るなり、メレキはベッドに突っ伏した。
考えてはいけない。絶対に、考えては駄目なのだ――自分に言い聞かせれば言い聞かせるだけ、さっきの『夢』が鮮明に蘇ってくる。
どうして、あんなものを見てしまったのだろう。
どうして、あんなものを望んでしまったのだろう。
自分では気が付かなかった己の素直さに、寒気を覚える。叶わないと分かっている夢をまだ心の何処かに留めている自分が、救いようのない人間だと思えた。
とても、苦しい。過去のこととして受け入れようと努力してきたのに、それが何の効力も発揮していなかったことに気が付いてしまって。
沸き上がってくるやるせない感情が、胸の傷を抉り返す。
それを押しとどめる力はなく、メレキはただ、強く拳を握る。
「メレキ」
突然ドアが開いたので、ひやりとした。アモルが食事の乗った皿を手に、呆れ顔で立っていた。
「何やってるの? ご飯出来たって、何回も呼んだのに。まぁ、今日の客は下品な奴らだから、下りて来たくない気持ちも分かるけどね。ここで食べな」
ベッドの脇のテーブルに、アモルが食事を置いてくれる。
昨日の夜、今日の朝、昼、とアモルの手料理を食べて、その腕の良さは充分に把握していた。
だが、今は例外だ。あんなものを見てしまった後では食欲なんか出ない。
それでも食べる素振りを見せないと不審がられると思い、湯気の立つスープを一口だけ口に運ぶ。
慌てたのか、気管に入って咽せ返った。
「そんなに急がないでよ。ゆっくり食べなって」
笑いながら、アモルが優しくメレキの背中をさする。メレキは思わず息を呑んだ。
驚くことではないはずなのに、体が強張った。
アモルの行動が、記憶の中の家族やラルゴの動作と重なったのだ。さすがにアモルも、おかしいと思ったのだろう。
「どうしたの?」
手を止め、不思議そうにメレキを覗き込んでくる。
『何でもない』という一言さえ、出てこなかった。負の感情を押さえ込もうと必死になれば、その分だけ拳が、唇が震え、言葉は泡のように消えるばかりだ。
「私……捨て子だった」
ようやく紡ぎ出せたのは、自分でも予測していなかった言葉だった。
言ってしまった後で、はっとする。反射的にアモルに目をやった。アモルは難しい顔をして、俯いていた。
「ごめん……」
「いいよ。続けな」
メレキの視線に気が付くと、アモルの表情が和らいだ。
「過去のこと、こっちから訊くことはしないよ。でも、話してあんたが楽になれるっていうなら、好きなだけ話せばいいさ。あたしはいくらでも聞いてあげるから」
驚きを隠せず、目を見開いてアモルの顔を見た。アモルは何も言わずに次の言葉を待っている。
メレキは意を決して、視線をぐっと上に向けた。
「農村に生まれたの。お母さんと、お父さんと、お兄ちゃんが三人。貧しかったけど……幸せだった」
そっと目を閉じる。帰らぬ過去の記憶を辿りながら、メレキは話し始めた。
「十二歳の時に、街に捨てられたの。戦争で食糧も不足してたし、私じゃ兵士にもなれなかったから、きっと仕方なかったんだと思う」
絶望に沈んだ夜を思い出す。そこに彼の手がなかったら、今頃どうなっていたことだろう。
「彼が――ラルゴが、私を拾ってくれた。四年も私の面倒をみてくれた」
ラルゴとの優しい記憶。今でも鮮明に思い出せるのに、頭の中は凍ってしまいそうなほどの冷気に支配されて、微笑むことすら出来ない。
ラルゴと過ごした時が幸せすぎたのだ。それがもう二度と帰ってこないと分かっている今、メレキに残されたのは絶望だけ。
五年前に家族を失った絶望。今はそれに、ラルゴを失った絶望も上乗せされている。
「ラルゴは一年前に死んだ。それからずっと、私は放浪してる。行く場所なんて何処にもないから」
メレキは目を開け、アモルを見た。これ以上話すことはない。
「そのイヤリングが、ラルゴって人の形見なの?」
アモルが問う。メレキは頷き、耳許に手をやった。ラルゴは死に際に、このイヤリングを差し出した。
消えてしまいそうな声で、メレキを守るお守りだと言って。
「ねぇ、アモル。私、失った家族やラルゴを未だに求めてる。
絶対に帰ってこないのに、また会いたいって、そう思ってる。夢にまで見てしまうの。これっていけないことだと思う? 忘れなきゃいけないことだと思う?」
しばしの沈黙の後、アモルはメレキに冷ややかな視線を向けた。
「気持ちは分かる。でもさ、ここでは何もかも忘れなきゃ。過去に縛られてたら、どうにもならない」
「でも、大切な記憶なの! 帰ってこないものを求めるのは辛いけど、帰ってこないからこそ忘れたくない。
それはいけないの?」
メレキはつい、大声になった。どうしても同意を得たかったのだ。しかしアモルの口からは、メレキの期待とは正反対の言葉が飛び出す。
「いけない……ことだよ、それは」
アモルの声音には、確かな苛立(いらだ)ちが込められていた。
「ここでは、過去を忘れないと幸せになれないんだから。過ぎたことばかり考えてたら……あんたも、あたしみたいになっちゃうよ?」
「『あたしみたいに?』」
聞き返すが、アモルの返事はない。
「客の相手をしてこなきゃ。食事、ゆっくりでいいからね」
アモルはそれだけ言い、部屋を後にした。
――逃げるように。
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