3.ロスト・シープ


 アモルの書いてくれた地図を見ながら、メレキは街を歩いていた。
 シャングリ・ラに来て、一週間。 だんだんと街の様子も分かってきたが、まだメレキはアモルが利用する全ての店を把握出来ているわけではなかった。 何しろシャングリ・ラは広いのだ。  
 アモルの言っていた通り、この街は成長している。 昼間買い物に出たまますっかり迷ってしまい、星が浮かび始めた頃にアモルに発見されたのはつい一昨日おとといのことだ。 普通の街なら何処に何があるのか覚えるのは得意な方なのだが、この街とはどうも相性が合わない。
 今日は、アモルに蝋燭ろうそくを買いに行くように頼まれていた。 半分迷いながらも、メレキはようやくそれらしき店を見つける。
 軋むドアを開けると、薄暗い店内に宝石類の置かれたショーケースが並んでいて、その間に一人の老人が佇んでいた。
「何の用かね」
 しわがれた声で老人が訊ねる。メレキは返答に困った。メレキが買いに来たのは蝋燭だ。 宝石ではない。もう一度地図に視線を落とすと、メレキが行くべきだったのはこの店の向かいだったことに気が付いた。アモルは字は綺麗だが、絵のセンスはない。
「何の用かね」
 再び老人が訊いた。
「すみません。店を間違えました」
 正直に言い、軽く頭を下げる。左耳のイヤリングが大きく揺れた。ふと老人の目が、メレキの耳許に吸い寄せられる。
「待て。その宝石――」
 きびすを返しかけたメレキを呼び止め、老人が近づいてきた。
「何ですか?」
「美しい……。珍しい色をしている…」
 ほとんど恍惚状態と言っても過言ではなかった。イヤリングを見る老人の眼差しに、メレキはぞっとする。 ラルゴの形見にあたる大切なイヤリングを、こんな目で見られるのは嫌だった。早くここを出よう。
「私、もう…」
「この透き通った美しさ。――素晴らしい。並の宝石にはない輝きだ。もっとよく見せてくれないか?」
 老人がイヤリングに手を伸ばす。
「!」
 突然のことに驚いて、身を退こうとした、その時。

 ――パチン、と大きな音がして、視界が一瞬だけ白く潰された。
 
 はっと気が付くと、足下に老人が倒れている。死んではいないであろうが、気を失ったのか微動だにしない。 メレキは驚いて、立ちすくむことしかできなかった。
 ――今、何が起こった?
「店長? 今の音、何だったんスか?」
 メレキの額に嫌な汗が流れた。店の奥から、三十代くらいの男が怪訝けげんそうな顔をして出てくる。 男は床に仰向けに倒れた老人を見、その後ろに立ち竦んだメレキを見て、驚愕に目を見開いた。
「店長!? お前、店長に何をした!?」
「私は! 私は、何も…!」
 無理だ。この状況で何を言ったって信じてもらえるはずがない。激しい怒りを宿した男の目を見て、メレキはそう悟った。 こうなったらメレキに残された手段は――逃走だ。
 ドアを開き、メレキは素早く駆け出した。
「待て!!」
 男もメレキを追い、走り出す。その時に男はレジの引き出しから何かを掴み取ったが、メレキにそれが何なのか確認する余裕はなかった。 今は、逃げることだけに集中しなければ。
 旅をしている間は毎日長い距離を歩いていたから、足には自信があった。しかし、焦れば焦るほど足はもつれ、意思に反してスピードは落ちていく。
「その女を捕まえてくれ! うちの店長を殴ったんだ!」
 男の声が通りに響き、通行人の視線が一斉にメレキに注がれる。 違う、と大声で否定したかったが、動揺の所為もあって息はすっかり上がり、それどころではなかった。
「シャングリ・ラに争いを持ち込む奴がいるのか!?」
「まさか! どうしてそんな狂った人間がここにいるのよ!」
「本当だ! 俺が言ったことは本当なんだ! うちの店長が殴られた! 気を失ったんだ!」
 男の言葉を背に聞きながら、メレキは必死に走る。そろそろ限界が近かった。
「シャングリ・ラを荒らす奴を捕まえるなら、俺も協力する! 逃がさねぇッ!」
 メレキを追うのとは別の男が、メレキの行く手を阻む。急いで足を止め、方向転換を試みるが、回りに人集ひとだかりが出来た所為で血路は全て塞がれていた。 どうするか考えているうちに、追ってきた男の拳がメレキの後頭部を殴りつける。手加減のない力強い一撃に、メレキはそのまま倒れ伏した。
「っ…!」
「シャングリ・ラに争いを持ち込む人間は排除する! それがここのルールだ!」
 鈍い痛みにうめきながら、男を見上げる。 氷柱のように冷ややかで鋭い眼差しが、真っ直ぐメレキに向かって下ろされていた。
「私は…っ…」
 何もやってない。気が付いたら、あの老人が倒れていたのだ。
一か八か説明してみようと、そう思った。しかしメレキが何か言う前に、腹部に男の蹴りが入る。 上がっていた息が詰まり、くらっと眩暈めまいがした。 容赦なく、立て続けに男の攻撃は続く。顔にも、腕にも、脚にも。
 立ち上がることも、這って逃げることも、呼吸さえもうまく出来ない。やがて男は、ぐったりと身を横たえたメレキの襟元を掴み、唾を吐き散らしながら叫んだ。
「許せねぇ! お前みたいな人間がここにいるなんて! もう争いごとは嫌なんだよ!」
 胸に、何か硬い物が押しつけられる。喘ぎながら、潤んだ瞳でそれを見たとき、メレキは額に冷や汗が浮かぶのを感じた。
 ――拳銃だ。
 どうして争いのないシャングリ・ラにこんな物があるのかと、考える間もなかった。黒く冷たい死の使者を見た瞬間、メレキを襲ったのはパニックだ。
「いやぁぁぁッ!!」
 全身の痛みも忘れて暴れ、恐怖から逃れようとメレキは必死に抵抗する。銃がメレキの胸を離れると、男の顔色が変わった。
「おい、動くんじゃねぇ! そんなに動いたら…!」
 ――乾いた銃声が、男の声を掻き消した。
「…!」
 メレキの右の上膊じょうはくに、激しい痛みが走る。 直撃はしてない。恐らくかすめただけだ。 しかし、それでも血は吹き出し、メレキの服を赤く染め上げる。痛みよりも恐ろしさに、メレキは声一つあげることが出来なかった。 
「おいおい、今の銃声か? 何の騒ぎだよ?」
 突如、騒然としていた空気が静けさを取り戻す。人集りを掻き分け、一人の青年が男の前までやってきた。 メレキの虚ろな目では、青年の容姿をはっきり確認することは出来ない。
「コ、コイツが、うちの店長を殴り倒して逃げたんだ! シャングリ・ラに争いを持ち込む人間は排除するのがルールだろ!? だから、撃ってやった!」
 青年は、男に襟元を掴まれたままのメレキにちらりと目をやり、肩を竦めた。それから溜め息混じりに言う。
「貴方が言うことは正しい。でもさ」
 硬い地面に、貨幣が落ちる音がした。スラーイ金貨だ。それも、一枚や二枚ではない。 襟元を掴まれたメレキに数えることは出来ないが、十数枚あるのではないだろうか。
「これで見逃してくれないかな?」
 男を含め、その場にいた全員が息を呑んだのが分かった。
「コイツ、俺の妹なんだ。悪い、もうこんなことさせないから。今回は見逃してくれ。頼む」
 一瞬の沈黙。
「…チッ! 今回だけだからな! 次はないと思え!」
「ああ。よく言っておくよ。ありがとう」
 男はメレキを乱暴に放す。地面に頭を打つと思ったが、青年が抱き留めてくれたらしかった。呼吸が幾分か楽になる。 少し安心した所為なのか、腕の痛みが突然強くなり、思わず苦痛の声が漏れた。
 男が一枚残らず金貨を拾って立ち去ると、野次馬のざわめきも次第に遠くなっていく。すっかり静かになると、青年が悪態をついた。
「バレバレの嘘、信じやがって。金の前では恥もプライドも捨てるのか」
 メレキは自然に閉じてしまう目をなんとか開いて、青年を見上げた。見覚えのある顔だ。
「あな…た……」
「ん? 覚えてるか、俺のこと。あんたがここに来た日、アモルの宿にいた」
「エウリ……?」
「そ。よく覚えてたな。一回しか会ったことないのに」
 黒髪に青い目――ラルゴと同じ色をしていたから、妙に印象に残っていたのだ。しかしラルゴとは違って、前髪はちゃんと目にかからないように切られていた。
「って、のんびり喋ってる場合でもないな。怪我が酷い。さっきの男と何があったのかは後で聞くとして、手当てが先だ」
 エウリは、メレキを自分の背にしっかりと背負った。
「すぐ近くに、俺の知り合いが経営してる酒場がある。そこに行こう」 
 メレキが何か言い返す余裕はなかった。体中がズキズキと痛み、息をするだけで精一杯だったのだ。
 エウリが一歩踏み出す度、その揺れが傷ついた全身に響いてくる。 意識が遠のき、呻くことさえも出来なくなった頃、エウリはようやく『ロスト・シープ』という看板が提がった煉瓦れんが造りの建物に辿り着いた。
「マーヴィ! いるか!?」
 エウリはドアを叩き、大声で呼びかけた。ほどなくしてドアが開き、肩先にかかるほどのなめらかな銀髪を持った青年が現れる。 足を怪我しているのか、杖をついていた。
「エウリか。まだ開店前なのに、何の用? …その女の子は?」
 青年の切れ長の目が、ぐったりとしたメレキを捉える。
「話は後だ、マーヴィ。コイツ、怪我をしてる。腕を撃たれてるんだ。イェシルに手当てを頼めないか?」
 マーヴィはメレキをじっと観察した後、頷いた。
「分かった。二階のベッドに運んであげて。イェシルを呼んでくるから」
「頼んだ」
 エウリは上品な雰囲気を漂わせる店内を通り抜け、階段を上がると、ベッドの上にメレキを横たえた。 まだ完全に止まっていない腕の血が、白いシーツを赤く染める。汚しては悪いと腕を上げようとするが、メレキの腕は全く言うことを聞かなかった。
「イェシルはこっちに来る前、戦場で兵士の看護をやってたんだ。怪我の手当ては得意だから、安心して待ってな」
 傷ついたメレキを励ますように、エウリが優しい声音で言う。嬉しく思ったが、今は礼の一つさえ言うことは出来なかった。 唇が切れているのか、言葉を発そうとすると鋭い痛みが走るのだ。
「来たみたいだな」
 誰かが階段を駆け上がってくる音が聞こえたかと思うと、すぐにドアが開いて、緑のリボンで銀髪を一つに結んだ少女が飛び込んできた。 メレキよりも二、三歳年下であろう。だが、背は高い。整った顔立ちと柔らかそうな髪の質から判断して、先程の青年の妹だと思った。 大きめの木の箱を持っている。多分、救急箱だろう。
「エウリ、怪我人というのは?」
「ここで寝てるよ。右肩の近くを撃たれてる。あとはよく分かんないけど、全身痛むみたいだぜ」
 イェシルは落ち着いた物腰でベッドに近づき、メレキをじっと観察した。
「エウリ、席を外してください」
「はいはい」
 何故か溜め息混じりにそう言って、エウリは部屋を出て行った。 イェシルは救急箱を開け、中の薬品や包帯を床に並べ始める。
「消毒液が傷にみるかもしれませんが、我慢してくださいね。なるべく動かないでください」
 エウリの言ったとおり、イェシルの手つきは慣れたものだった。 腕を動かされる度にズキリとした痛みを感じたが、それを最小限にとどめようとしてくれているのか、一つ一つの動作が丁寧で優しい。 その気遣いに答えようと強く目を閉じてこらえている間に、順調に傷の手当ては進んでいった。
 小さな傷まで手当てが済み、イェシルが貸してくれた服に着替え終えた頃には、もうここに来てから随分と時間が過ぎていた。窓の外が暗い。
「お疲れさまでした。エウリを呼んできますから、休んでいてください」
 イェシルは微笑みながら、メレキの体にそっと毛布をかける。
 大きな怪我は腕だけだったが、メレキは至る所を打撲していた。骨まで痛めずに済んだのは不幸中の幸いだ。だが、ここからアモルの宿まで自力で帰るのはさすがに難しい。
 アモルはどうしているだろう。帰りが遅いメレキを心配して、そろそろ捜しに出る頃ではないだろうか。とにかく、早く戻らないと――
 これからどうするか考えていると、エウリを連れてイェシルが戻ってきた。
「ありがとな、イェシル」
「別に、あなたにお礼を言われる理由はありません」
 イェシルは冷淡な眼差しをエウリに向けた。エウリが苦笑する。
「相変わらずクールだな、イェシルは」
「クールなのではなくて、あなたが嫌いなんです」
 さっきまでメレキを優しく看護していたとは思えないほどの冷え切った声音で、イェシルは言ってのける。
「うわ、何だよそれ。そんなにハッキリ言い切らなくても――」
 エウリの言葉が、突然ぴたりと途切れた。メレキの目の前で二人の表情が一変する。焦りの表情だ。
「マーヴィか!?」
 階段の方から、コツコツと何か硬い物を打つような音が聞こえてきた。エウリが素早く部屋を飛び出す。
「なに…?」
 掠(かす)れた声で訊ねると、イェシルはまた表情を変え、メレキを安心させるように微笑んだ。
「私のお兄様です。右手と右足が不自由なので、一人で階段を登らないように言っているのですが……でも、心配しなくて大丈夫です。エウリが行きましたから」
 イェシルの言った『お兄様』という言葉は、とても上品な響きを持っていた。育ちが良いのかもしれない、とメレキは予測する。
 ほどなくして、エウリに肩を支えられたマーヴィが姿を現した。黒い服を着ている所為で、銀髪が眩しいほどに映えている。 メレキはイェシルとマーヴィを交互に見て、二人がシャングリ・ラには珍しい実の兄妹であることをはっきりと確認した。
「階段登るときは声かけろって、いつも言ってるじゃねぇか。この間も、バランス崩して落ちたの忘れたのか?」
 エウリの呆れたような声。
「仕方ないじゃないか。二人とも上に行っちゃってたし」
 少しも反省する色気を見せず、マーヴィは穏やかに笑う。メレキはマーヴィの不自由だという右腕を見ようとして、思わず息を呑んだ。
「あれ? 驚かせちゃったかな」
 マーヴィは笑みを絶やさぬまま、メレキに視線を移した。
「シャングリ・ラに来る前は、兵士だったから。その時に怪我をしてね」
 マーヴィは相変わらず笑っているが、メレキは笑い返すことが出来なかった。
 彼は右腕が不自由なのではない。
 右腕がないのだ。
 義手もつけておらず、邪魔だからなのか、服の袖も右の部分は肩から先がなかった。
「義足は出来たんだけど、義手が出来る前にこっちに来ちゃって。こっちでは義手なんて作る人がいないから、手に入らなくて難儀してるよ」
「お前の話はもういいよ」
 エウリが口を挟んだ。
「俺は、お前じゃなくて彼女の話が聞きたいんだ。メレキっていったよな、あんた。どうしてこんな怪我をする羽目になった?」
 メレキは横になった体勢で、天井を見つめたまま口をつぐむ。
実際に起こったことを説明する気もなく、信じてもらえる気もしなかった。
「あの男、あんたが店長を殴り倒したとかって言ってたよな。本当なのか?」
 メレキはやはり、答えない。
「言いたくないんだったら無理に聞き出さなくていいんじゃないかな。そうでしょ、エウリ?」
 マーヴィが言うと、エウリは俯いた。
「別に構わないけど。でも、シャングリ・ラに争いを持ち込むなんてのは、穏やかな話じゃないからさ」
「…それは、そうかもしれないね」
 マーヴィは再びメレキに目をやった。さっきの目つきとは違う。優しさはなく、胸まで見透かされるような、刃に似た鋭さを持った眼差し。 戦場に立つ兵士の表情だ。メレキは背筋がぞくりとするのを感じた。
「いい? シャングリ・ラにいる人は、『争い』っていうものに敏感なんだ。みんな、地獄みたいな過去を味わってここにいるわけだからね。 何があったとしても、ここで人を傷つけることはしない方が利口だ。 争いを持ち込む人間は、ここでは排除される――身を以て分かっているだろうけど、そういう人間を殺したとしても、ここでは罪に問われないんだ」
 マーヴィの言葉を聞きながら、メレキはやり切れない思いだった。しかし、今は堪えるしかない。
「お兄様、もうやめて」
 メレキの心情を悟ってくれたわけではないだろうが、イェシルが止めに入る。
「この人、弱っているから。怪我人を責めるのは、よくないと思うから」
 イェシルの訴えを聞くと、マーヴィは割合すんなりと引き下がった。
「分かった。これ以上言うことはないよ。イェシルの言う通り、この子は弱っているからね。………」
 マーヴィは不意に、メレキを見ながらいぶかしそうな顔をした。
「顔色が悪いね。そんなに出血が酷かった?」
 メレキは沈黙を守る。マーヴィは返事を待っていたが、メレキが答えないと分かると、言葉を続けた。
「どうする? ここで休んでいってもいいけど」
「帰り、ます……」
 うまく出ない声を絞るようにして、メレキは言う。
「家は?」
「アモルの、宿……そこで、働いているから……」
 それを聞くと、マーヴィの表情が和らいだ。
「アモルの所か。だったら安心だね。彼女、面倒見がいいから。問題は、どうやってそこまで行くかなんだけど」 
 言いながら、マーヴィはエウリをちらりと見やる。
「分かってるよ。俺が送ってく。それぐらいのことはしてやるつもりで助けたんだからな」 
 エウリは面倒臭そうに、けれども決して乱暴ではない手つきで、弱り切ったメレキを背負ってくれた。

            ***

 宿に帰ってくると、アモルは既に夕食の片付けをしているところだった。 客はもう食事を終えて部屋にいるらしく、そこにはアモルしかいない。メレキの分の食事がきちんとカウンター席に置かれていた。
「よ、アモル。あんたにお届け物だ」
「メレキ! エウリ、一体何があったの!? メレキのこと、さっき捜しに行ったんだけど、見つからなくて…。これからもう一回行くつもりだったんだ!」
 アモルは慌てた様子で叫び、ぐったりとしたメレキを覗き込む。
「ちょっとした事件に巻き込まれたみたいでさ」
「怪我してるの!?」 
「大したことねぇよ。『ロスト・シープ』が近かったから、イェシルに手当てをしてもらった」
 銃で撃たれたことを伏せてくれたので、メレキは安心した。話がややこしくならずに済む。
「大したことはないけど、まだ痛む所があるみたいだし、休ませてやってくれないか? ベッドまで運ぶよ」
「そこの階段登って、右の部屋だ。メレキ、食事持っていこうか?」
 メレキは何も言わずに、首を横に振った。
「疲れてるんだよ。今は寝かせてやれって」
「…分かった」
 心配そうな面持ちのまま、アモルはしぶしぶ引き下がる。
 エウリに背負われて階段を上がり、ようやくベッドに寝かされると、メレキは痛みと疲れがどっとのし掛かってくるのに気が付いた。 顔にかかった髪を払うだけの元気もない。
「大丈夫か? 生気を奪われたみたいな顔してるぜ」
「………」
「人を殴っちまうぐらいだから、もっと強気な奴かと思った。でも、そうでもなさそうだな。さっきのも、何かワケがあったんじゃねぇのか?  あんた、落ち込んでるようにしか見えねぇよ」
 メレキは、真実を言うべきか一瞬迷った。だが、もう今更だ。ここまできてしまったら、余計なことを言って話をこじらせるつもりはない。 だから、代わりに別のことを言うことにした。
「私だって……争いなんて、嫌」
 エウリは少し驚いたような反応を見せる。
「そっか。じゃ、おやすみな。メレキ」
 エウリはそう言って、部屋を後にした。
 真っ暗になった部屋で、メレキは深く息を吐く。塞ぎ込んだ気持ちは晴れなかった。メレキが塞ぎ込むのは、決して濡れ衣を着せられた所為だけではない。 むしろこちらは、まだ堪えることが出来た。どうすることも出来ないのは、もう一つの要因だ。
 ――それは、空気を震わせて響いた、あの銃声。
 歯痒はがゆさ。哀しみ。絶望――銃声には、そんな負の感情が込められている。 かつてその音が、メレキをどんなに苦しめたか。今は過ぎてしまったことだが、あの音を聞くだけで、消し去りたいと願った全てのことが鮮明に蘇ってくるのだ。 この間アモルに自分の過去を打ち明けてしまってから、もうこのことは考えないと心に決めていたのに。
 強く、目を閉じた。早く眠りについて、幸せな夢の中に沈んでしまいたかった。
 それなのに。
眠ろうと思えば思うほど目は冴え、考えまいとすればするほど頭には地獄の記憶が蘇ってくるのである。
 数時間経ったのだろうか。しばらく脳裏をぎるトラウマと奮闘した後で、メレキはついに身を起こした。
眠れないときは、少しお酒でも飲むといいよ──もともと寝付きの悪いメレキに、アモルがそう教えてくれたことを思い出す。 時計を見ると、もうアモルは眠っている時間だった。今なら彼女に気付かれずにカウンターに出て行くことが出来るだろう。今だけは、アモルに会いたくない。
立ち上がると全身の傷が一斉に疼き出したが、支えがあればどうにか歩けそうだった。
細心の注意を払って音を立てないようにドアを開け、閉める。それからゆっくりと、メレキは階段を下り始めた。
カウンター席の明かりがついているのが見える。アモルが消し忘れたのだろうか。 客は部屋に入り、カウンターには誰もいない時間のはずである。だが、階段を一番下まで下りたところで、メレキは自分の考えが間違っていたことに気が付いた。
 一人だけ、まだ部屋に入っていない客がいたのだ。
「エウリ…?」
「メレキ? まだ起きてたのか」
 エウリはカウンターの一番端にあるドアに近い席に座り、一人で酒をあおっていた。
「座れよ。立ってるの辛いだろ?」
「…うん」
階段の手すりを離して自分の力だけで歩き出すと、ズキリとした痛みがそれまでの倍になる。それでもなんとか足を動かし、メレキはエウリの隣の席に着いた。
「強いな。随分痛むんだろう?」
 メレキは頷かない。肯定したくなかった。
「飲むか?」
エウリがグラスを突き出してくる。
「少しだけ」
「りょーかい」
エウリは三本並んだ酒瓶のうち、まだ残っているものを選んで、メレキのグラスに酒を注いだ。
「こんなに…一人で飲んだの?」
 エウリが酒に強いのは知っている。だが、この量はさすがに多いのではないだろうか。
「まあ、今日は特別だからさ」
「特別…? やけ酒…?」
メレキが言うと、エウリはぶっと吹き出した。
「ヤケを起こす理由なんてねぇよ。祝い酒だ」
「祝い酒?」
どちらにしても分からない。一体何を祝うことがあるのだろうか。
そこでメレキは、エウリの頬がほんのりと赤く染まっていることに気が付いた。酔っているのだ。自分が言っていることも、半分くらいは分かっていないかもしれない。
「もう寝た方がいいよ」
「ん…そうかもな。これが片付いたらそうするよ」
エウリはそう言うなり、残りの酒を直接瓶から飲み始める。
メレキも自分の酒を、ぐっと飲み干した。喉が熱い。いつもアモルと一緒に飲んでいるものよりも強いようだ。 こんなものを酒瓶三本近くも飲んでしまって大丈夫なのだろうか。席を立ったエウリの足下は、心なしかふらついていた。
「メレキ。今度、『ロスト・シープ』に来いよ。あそこにはいろんな奴が来て面白いからさ。じゃ、おやすみな」
メレキは部屋へと去って行くエウリの背中を見送りかけたが、そこではっと思い出した。
「待って」
「何だ?」
「言い忘れてたから。今日は、助けてくれてありがとう」
エウリは驚いたような顔をする。メレキは戸惑った。それが、ついこの間のアモルの表情と重なったからだ。
「…アモルにも、お礼を言ったらそんな顔された」
ふっ、とエウリが笑う。
「当たり前だ。そんな無表情でお礼を言う奴なんて、あんたの他に見たことねぇよ」
 エウリは事もなげにそう言い、去っていく。
 思ってもみなかったことを指摘され、メレキは目を瞬いた。



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