4.孤独な心に落ちた影


 一日の仕事を終えたメレキは、賑やかな夜の街に繰り出した。
 何だか落ち着かない気分だ。 今夜出掛けることはちゃんとアモルに話してあるのだが、夜に街に出ると言うだけで、何か悪いことをしているような気持ちになってしまう。 旅をしているときにはなくしていたそんな子供っぽい感情が、メレキの心に戻り始めていた。
 メレキの向かう先は、先日世話になった『ロスト・シープ』である。 アモルもかつて常連だったらしく、例のように地図を書いてくれたが、残念ながらメレキの微かな記憶の方が頼りになった。
 やがて、『ロスト・シープ』の煉瓦造りの建物が見つかる。メレキはドアの前に立ち、そこで少し中に入るのを躊躇した。 あの時の厳しいマーヴィの眼差しと口調が脳裏をかすめたのだ。どうしても顔を合わせにくい。
 それでも、覚悟を決めてドアを開ける。ドアに付けられたベルが、騒がしい店内にメレキの訪れを知らせた。
「いらっしゃいませ」
 カウンターに立つマーヴィの目が、早速メレキを捉える。メレキは思わずうつむいた。 何を言われるのか、考えると怖い。だが、メレキにかけられた言葉は意外なものだった。
「やぁ。こんばんは、メレキ。怪我の具合はどう?」
 驚いて顔を上げる。マーヴィは緩やかに笑っていた。
「……。もう、大丈夫、です…」
 ぼそぼそと答えると、マーヴィは一層優しく微笑む。
「それは良かった。イェシルと一緒に心配してたんだよ。あの日から、君は買い物にも出てないって聞いたから」
 メレキはきょとんとした。誰がそんなことを――問う前に、答えが見つかった。
「久し振り〜! メレキのお姉さん!」
 夢売りのラーレが客席に座り、こちらに手を振っている。
 メレキが夢を買ったあの日以来、ラーレは街でメレキを見かける度に話しかけてくるようになっていた。 ラーレから買った夢を見てから頻繁に過去を思い出すようになってしまったのは事実だが、それは決してラーレの所為ではないとメレキは理解している。 だから彼女との付き合いを避けたりはしなかった。お互いに変わった者どうしだが、メレキとラーレはすっかり良い友達になっていた。
 お喋り好きのラーレなら、メレキが最近街に出ていないことをマーヴィに話していても不思議ではない。
「買い物に出ること、アモルに止められてたんでしょ。彼女、心配性だから」
「…うん」
 マーヴィの問いに、メレキは小さく頷いた。まだ彼を正面から見据えて話をすることが出来ない。マーヴィはそんなメレキの様子に苦笑を漏らした。
「立ち話もあれだし、座って楽にして。空いてる場所、何処でもどうぞ」
 メレキは首を横に振り、マーヴィの誘いを断る。好意で言ってくれているのは分かるのだが、長居する気は全くなかった。
「私…イェシルに、服を返しに来ただけだから」
「私?」
 マーヴィの後ろから、イェシルが顔を出す。メレキは俯き加減で彼女に近づき、借りていた服の入った袋を、ばっと差し出した。
「 ありがとう、ございました」
 メレキの腕の先で、イェシルは戸惑ったように立ちすくんでいる。
 視線を落としたままメレキは、失敗した、と思った。これで三回目だ。
「駄目じゃん。また不合格」
 からかうような声に振り向くと、客席にエウリがいる。 いつものように酒をあおっているエウリは、メレキに向かって呆れたような笑みを浮かべていた。
「不合格って何のこと?」
 マーヴィが訊ねる。
「メレキのお礼の言い方。普通、もっと笑顔で言うだろ? 人に感謝するときってさ」
「別に、私は気にしません」
 イェシルはさげすむような目でエウリを睨むと、メレキの手から袋を受け取って店の奥に消えた。 エウリと同じ空気を吸っているのも嫌だと、その後ろ姿が語っている。この前は冗談かもしれないと思ったが、イェシルはどうやら本当にエウリが嫌いらしい。
「ちょっと、イェシル! 僕はもう出掛けるんだから、引っ込まないで!」
 マーヴィが呼びかけるとイェシルはしぶしぶ出てきたが、その顔に一切の笑みはなかった。 ぶすっとした表情で、イェシルは黙々と食器洗いを始める。エウリに対する嫌悪感が滲み出ていた。
 マーヴィは深い溜め息を吐き、杖をついてカウンターから出てきた。 脚が一本自分のものでない上に、体を支える腕も一本しか持っていないマーヴィの歩き方は、酷くぎこちないものだった。
「珍しいな。お前が一人で出掛けるなんて」
「そう? そんなことないよ。週に一度はこうして出掛けてる」
「何処に行くんだ?」
「ちょっとね。人に会いに行く」
「なんだよ。彼女でも出来たのか?」
 エウリが言うと、マーヴィは誤魔化ごまかすように笑った。
「あはは、秘密だよ。それじゃ、ゆっくりしてってね」
「おう」
 マーヴィが店内を出ていく。メレキもその後に続いて帰ろうとした。用は済んだのだ。だが、背中でエウリが呼び止めた。
「来たばっかりじゃん。もう帰るのか?」
「そうだよ、メレキのお姉さん! わたし、ここのところ退屈してたんだから! お喋りしよ?」
 ラーレにも言われ、しばし悩んだ末にメレキは二人の方向に足を戻す。 面倒だと感じる一方で、メレキはなんだか温かい気持ちになった。自分の名を呼び、誘ってくれる友人がいることが、とても幸せなことに思えたのだ。
「ちょっとだけなら」
「そうこなくっちゃ! イェシルちゃん、メレキのお姉さんの分のグラスよろしく〜」
「ええ」
 グラスを運んできたイェシルはラーレとメレキに笑いかけたが、二人の方に移動してきたエウリを見ると、すぐさま冷淡な表情になった。 意識してやっていると言うより、これはもう反射に近い。
「ったく。俺も嫌われたもんだな」
 イェシルの背中を見送りつつ、エウリは溜め息を吐く。
「エウリ、イェシルちゃんと何かあったの? イェシルちゃん、優しいもん。何にもなかったら、絶対あんな顔しないよ」
「バーカ。何にもねぇよ」
 エウリは不快そうに言い、グラスの酒を口に運んだ。
「嘘だぁ。絶対何かあったんだ。もしかして、昔コレだったとか」
 意地悪く笑いながらラーレが小指を立てて見せたので、エウリはせ返った。
「ンなワケねぇだろ!?」
 グラスをテーブルに叩き付け、エウリはげほげほと咳き込む。ラーレは愉快そうに、きゃらきゃらと高い笑い声を上げた。
 メレキはそんな二人のやり取りから視線を逸らし、イェシルの方に目をやる。 イェシルは相変わらず無表情のまま、黙々と食器を片付けていた。 エウリとラーレの会話が聞こえなかったのか、あるいは聞こえないふりをしているのか。――後者なのではないかと、メレキは思った。
「おい、メレキ」
 呼ばれて振り返ると、訝しげなエウリの目がそこにあった。突然そんな眼差しを向けられる理由が分からず、メレキは小さく首を傾げた。
「何?」
「何、って…。何て言うか、あんたさ、本ッ当に笑わないんだな」 その言葉に、メレキは顔をしかめる。 この前指摘されてから、自分でも気にはしているのだ。けれど、自分で楽しいと感じられることが何もないのだから笑顔はどうしても出てこない。 笑顔の作り方さえ、うまく思い出せない。
「過去に何かつらいことがあって、それで笑えなくなったっていうのは何となく分かるよ。 ここに来た奴はみんな、最初はそうだからな。でも、いつまでも縛られてるんじゃねぇよ。過去を引き摺ってたってどうにもならないぜ?  笑顔を思い出せ、メレキ。せっかくあんた、キレイな顔立ちしてるんだし」
 アモルと似た台詞セリフに、メレキは何も言い返せなかった。
「笑えないなんて、哀しいよね…。わたしの笑顔を分けてあげたいくらい」
 同情するようにラーレが言う。メレキは二人の顔を見ることが出来なくなり、仕方なく自分の前にあったグラスを見つめた。 黒い瞳が、つまらなそうにメレキを見返してきた。
「楽しいことでも考えてみろよ。過去のことは、みんな忘れて」
 それが出来たら、こんなに苦しんだりはしないのだ。エウリの言葉がとても無責任に思える。
「エウリ。私には、そんなこと――」
 不意にガシャンと大きな音がして、メレキの言葉は遮られた。
「あ! イェシルちゃん、大丈夫っ!?」
 ラーレがカウンターに駆けつける。どうやら、イェシルが手を滑らせて食器を割ってしまったようだ。
「怪我はない?」
 イェシルはラーレの問いには答えず、兄によく似た切れ長の目をエウリに鋭く向けた。 にらまれているのは自分ではないのに、メレキは体が強張るのを感じる。 イェシルの目には、激しい怒りが宿っていた。
「いつまでも縛られるなとか、楽しいことを考えろとか……そんな言葉、どうしてあなたが言えるんですか!?」
 イェシルが叫ぶ。怒鳴ると言うよりは、悲鳴に近かった。騒いでいた客が口を閉ざし、店内が水を打ったようになる。
 エウリはばつが悪そうにイェシルから目を背けた。まるで逃げるような動作だ。 無言で席を立ったエウリは、酒の代金をばらばらとテーブルに置くと、誰かが止める間もなくそのまま店を出て行った。
 胸に染み込んでくるような冷たい静寂だけが、後に残される。
 メレキはしばらく動けなかった。

            ***

 結局その後メレキは、イェシルが割った皿の片付けを手伝っただけで店を出た。 とてもラーレとお喋りをする雰囲気ではなくなってしまったし、早く重い空気から解放されたかったのだ。 しかし、外に出てもメレキの胸の内は暗く閉ざされたままだった。悩みの種がまた増えてしまったようだ。
「あれ? メレキ?」
 突然呼ばれ、メレキは立ち止まった。マーヴィが前方から歩いてくる。今まで誰かと会っていたのだろうか。
「これから帰るのかい?」
「うん」
「そう。気を付けてね」
 マーヴィがメレキの横を通り過ぎようとする。そこでメレキはふと思い立ち、考える前にマーヴィを呼び止めていた。
「あの…」
 マーヴィは立ち止まり、振り向いて不思議そうに首を傾げる。メレキは数秒の躊躇いの後、マーヴィの顔を正面から見上げた。
「さっき、イェシルが――」
 メレキは先程の『ロスト・シープ』での出来事をマーヴィに話した。 イェシルの兄である以上、彼女の様子がおかしかったら何か心配するかもしれない。言っておいた方がいいと思ったのだ。
「……そっか。分かった。話してくれてありがとう」
 話を終えると、マーヴィは肩を竦めて呆れたような笑みを浮かべた。
「困った妹だ。でも、君が気にすることじゃない。だから、そんな顔しなくていいんだよ」
 自分は、そんなに不安げな顔でもしていたのだろうか。 何も言えずに黙っていると、マーヴィは足下に杖を置いて、メレキの頭を優しく撫でた。突然のことに驚いたが、同時にメレキは安心している自分に気が付く。
「それじゃ、またいつでもお店においで。僕もイェシルも待ってるから。エウリもよく来るし」
「…うん」
「またね、メレキ」
 背を向けて去っていくマーヴィの姿は、初めて見たのに、何故か懐かしい気がした。

            ***

「ねぇ、アモル。もしもシャングリ・ラで過去の傷を癒すことが出来て、こんな場所はもう必要ないって思えるようになったら、その後はどうなるの?」
 メレキが訊ねると、アモルはきょとんとして目を瞬いた。
「変なことを訊くね、メレキ。さぁ、どうなるんだろう? 元の、自分たちの時代に戻るって話は聞いたことはあるけど…。今までにそんな人、いたのかな?」
 どうでもよさそうに答えながら、アモルは雑巾に手を伸ばす。
 今日は、定休日だ。働き過ぎはよくないと、アモルは週に一度必ず宿を休みにする。 休みの日にはいつも二人で買い物を楽しんだり、一日中のんびり話をしたりして、ゆったりと過ごすことになっていた。
 ちなみに今日は例外で、二人は物置の掃除をしていた。物置と言っても本来は客の宿泊室の一つで、壊れた家具やアモルの私物が無造作に積まれた場所である。 最近物が入りきらなくなって、アモルが必要のなくなった物をメレキの部屋に置くようになってしまったため、メレキが掃除を提案したのだ。 メレキはこの部屋を通称、『アモルのゴミ箱』と呼んでいる。
「さて、問題はこの家具たちをどうするかなのよね」
 アモルは足が一本ないテーブルや傾いた本棚を見て、溜め息を吐いた。
「思い切って捨てるか…でも、勿体もったいない気もするんだよね」
 確かに、使用するには不都合な点があってもまだ綺麗なのだ。
「私、直そうか? そうすれば客席を増やせる」
 メレキが言うと、アモルは驚いたように目をぱちぱちさせた。
「出来るの?」
「うん」
 幼い頃、父や兄たちを手伝って家具の類を作るのは楽しい遊びの一つだったから――だがメレキは、それを口に出して言うことはしなかった。 やはり、家族を思い出すと胸が疼く。
「それならあたし、直して使えそうな家具を外に運ぶよ。メレキは雑貨の片付けよろしくね」 
 メレキは頷き、早速作業に取りかかった。家具と違って、雑貨の方はどうやっても使えそうにない物が圧倒的に多い。 一つ一つ手に取ってほこりを拭いては、それをどうするか考えていく。
 破れて原型をなくしたぬいぐるみや、使えないペンが大量に入った箱を見つけては、メレキは呆れた。 こんな物を残しておくから、メレキの部屋まで被害が及ぶのだ。だんだん嫌になりながら作業を続けていると、ふと、ある物が目に止まる。
 それは、埃にまみれた写真立てだった。枠に薔薇の花びらをかたどった装飾が施されている。 高そうなものだった。
 メレキは写真立ての白い埃をそっとぬぐう。 まだ写真が入っていた。埃のお陰で日焼けを防げたのか、色も鮮やかだ。丁寧に埃を取っていき、メレキはそれをじっと眺めた。
 写っていたのは今と変わらないアモルの姿。それと――メレキの知らない青年の姿だった。
 金髪を後ろで一つに結っているその青年は、見たところ、アモルと同い年ぐらいだろう。 快活なアモルに対して大人しそうな、そして優しそうな顔をした青年だった。きっと温厚な性格なのだ。
「手が止まってるじゃん、メレキ。何か見つけた?」
「これ…」
 写真立てを差し出すと、アモルの顔から笑みが消失した。表情が固まっている。瞬き一つしないアモルを見て、メレキは少し心配になった。
「アモル?」
「ん? あ、ああ、これね…」
 アモルはぎこちない動作でメレキの手から写真立てを受け取る。
「これ、もう捨てたつもりでいたのに。こんな所にあったんだ」
 アモルの顔に、喜びと哀しみを半分ずつ混ぜたような複雑な微笑が浮かんだ。
「その人、アモルの――」
「そうさ。あたしの婚約者」
 メレキは驚くというより、納得する。アモルの左手の薬指に指輪がはめられているのは、随分前から知っていたのだ。
「シャマイムっていうんだ。弱そうな奴だろ?」
「すごく、優しそうな人」 
 メレキの言葉に、アモルは苦笑した。
「そうだね…。確かに優しい奴だったよ」 
 何気なく使われた過去形。アモルの微笑みは、いつの間にか取り繕ったようなものに変化していた。 哀しみを混ぜるのではなく、哀しみを隠すための偽りの笑顔だ。
「コイツ、耳が聞こえなかったんだ。だから、サバハとの戦争が始まって徴兵令が出ても、兵士になれなくて。 いつもそのことを気にしてたんだ。どうにもなんないのに、バカだよね」
 メレキは黙って、アモルの話に耳を傾けていた。
「戦争で、隣の街が焼かれてさ。あたしの村にいっぱい人が逃げ込んで来たんだよ。その中には兵士もいた。だからあたしの村、攻撃の対象にされちゃって」
 写真を眺めるアモルの目が、遠くを見るように細められる。
「警鐘が鳴ったんだ。サバハが攻めてきたって。あたしは家族と一緒に逃げた。だけど、あたしだけ途中で引き返したんだ。シャマイムがいないことに気が付いてさ。 あのバカ、一人で暮らしてたんだ。警鐘がどんなに響いたって、あいつの耳には聞こえない。警鐘が鳴ったことを知らせる奴だって側にいない。 兵士たちがいっぱいいて、すごく怖かったけど、あたし、シャマイムのこと必死に捜したんだ。
 あいつの家には誰もいなかった。もしかしたらちゃんと逃げられたのかもって、そう思った。 余計な心配したのかなって、自分を笑う余裕もできたくらい。シャマイムの家から出ると、兵士も村の人もいなくなってた。 あたし、ちょっと安心してさ。家族の所に戻る前に、一度自分の家に戻ることにしたんだ。 ここにはしばらく帰って来られないかもしれないから、必要な物を持って行こうと思って。…家に帰る途中、見知った顔の人が倒れているのを見る度にどきっとした」
 そこで言葉を切ったアモルは、そのまましばらく黙っていた。偽りの笑顔さえも、今のアモルはなくしてしまっている。 残っているのは、深い哀しみに歪んだ表情だけだ。
「あたしの家、瓦礫がれきの山になってた。 焼かれちまったみたいでさ。最初は、命が助かっただけでも良かったんだって考えようとした。でも、そういうわけにはいかなかったんだよ。
 瓦礫の中にさ……焼けただれた男が倒れてたんだ。 シャマイムだった。顔はもう分かんないくらいだったけど、指に、あたしと同じ指輪をはめてたんだ。あたしと交換した、婚約指輪…。
 きっとあたしの家が燃えてるのを見て、あたしを助けようとしてくれたんだろうね。あたしはもう逃げたってのに、シャマイムには確かめる術がなかったから。
 あたし、頭の中真っ白になっちゃってさ…。しばらくそこにいたんだ。夜になって家族の所に戻ったら、逃げた先にもいつの間にか、サバハの手が回ってて……」
 アモルの瞳が潤み始め、やがて涙が零れ落ちた。
「あたし、たった一日でシャマイムも家族も失くした。残ったのは、焼け跡から見つけたこの写真と指輪だけなんだ。
 でもさ…こんな物でこれからどうしろって言うの? もう、何処にもないんだよ。行く場所も、帰る場所も…!」
 アモルの受けた傷の痛みが、苦しいほどにメレキに伝わってくる。
 ――過ぎたことばかり考えてたら……あんたも、あたしみたいになっちゃうよ?
 いつかのアモルの言葉が頭に蘇った。
 アモルも、メレキと同じだったのだ。
 いつも笑って、何も気にしていないように振る舞いながらも、アモルの胸の内には消せない闇が渦巻いていたのだ。
 嗚咽おえつを漏らすアモルの前で、メレキは何も言うべき言葉が見つからなかった。 自分を苦しめる過去をどうにかする方法さえないのだから、それは当然だ。
「ごめんね、メレキ…。ちょっと、一人にして」
 メレキは小さく頷き、宿を出ていった。

           ***

 どうすればいいのか、分からなかった。
 メレキは俯いたまま、日没の迫る街を歩く。アモルが涙を流す瞬間が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
 シャングリ・ラにいる全ての人間が、例外なく暗い過去を持っているのは承知しているつもりだった。 けれども、一番身近な存在であるアモルに泣かれるというのはメレキにとって大きなショックだ。 自分を支えてくれた柱がぽっきりと折れてしまったような、そんな喪失感を覚える。
 ずっと下を見て歩いていたら、人にぶつかった。
「うわ、前見て歩けよ、あんた」
 不満そうに言ってきた青年を見上げる。見知った顔があった。
「エウリ」
「何だ、メレキだったのか」
 エウリはそう言った後で、申し訳なさそうな顔をした。
「昨日はゴメンな。俺、言い過ぎた」
「いいの。気にしてないから」
 アモルのことがあった後だ。そんなこと、もう忘れてしまっていた。
「本ッ当に悪かった。あんたを傷つける気はなかったんだ」
「うん」
 沈黙が訪れる。エウリは困ったようにメレキを見つめていた。沈んだ気持ちがメレキの表情に出てしまっているのだろう。 自分の所為だと、エウリは勘違いしているのかもしれない。
「ねぇ、エウリ。泣いている人を慰めるには、どうしたらいいの?」
  出し抜けに訊ねると、エウリは不思議そうに目を瞬いた。
「誰か泣いてるのか?」
「アモル」 
「…なるほど。それで、そんなに暗い顔してるワケだ」
 原因が自分でないと分かって安心したのか、エウリの口調がいつもの張りを取り戻す。
「でも、珍しいな。あいつが泣くなんて」
「どうすればいい?」
「どうすれば、って…。苦手だな、そういうのは。でも、専門家がいるよ。あいつなら、相談に乗ってくれるさ」
「専門家?」

            ***

 しばらくしてメレキとエウリが向かった先は『ロスト・シープ』だった。店は開いていたが、まだ早い時間の所為か客は誰もいない。
「あれ、今日は随分早いんだね。こんな時間に来るなんて。メレキも一緒なんだ」 
 マーヴィは店に入ってきた二人に、物珍しそうな目を向けた。
「よ、マーヴィ。あのさ――」
「大丈夫だよ、エウリ。イェシルは今日、ラーレの所に行ってるから」
 落ち着きなく店内を見回すエウリに、マーヴィが笑いかける。
「何だ。聞いてたのか、昨日のこと」
「まぁね」
 マーヴィは素早くメレキに目配せした。メレキはどきっとしたが、幸いエウリは気が付かなかったようだ。
「で、今日は何の用? まさか、こんな時間に飲みにきたわけじゃないでしょ?」
「勘がいいな、お前は。でも、用があるのは俺じゃない。メレキの方だ」
「そうなの? で、何?」
 興味深げに、マーヴィが訊ねる。
 メレキは緊張を覚えながら、アモルのことをマーヴィに話し始めた。 この人と話をするのは、やっぱり苦手だ。あの時に厳しく言われたからという理由だけではないと、メレキは気が付き始めていた。
 マーヴィはメレキの話を聞くとき、その黒い目をほとんどメレキの瞳から離さない。 それは真剣に話を聞いてくれているからなのかもしれないが、まるで監視されているようで、落ち着かなかった。
 それでもなんとか、メレキは話を終える。マーヴィは難しい顔をしてうめき、深い息を吐いた。
「初めて聞いたな。アモル、ずっと一人でそんな過去を抱えてたんだ」
「私、どうすればいいの? 何を言ってあげればいい?」
「言ってあげる言葉なんて決まってないよ。人の心は、そんなに簡単に出来ていないもの。 こういう時にこうすればいいなんて単純な決まりがあったら、この世界には永遠に争いなんてないと思うから」
 メレキは落胆した気持ちで視線を落とす。結局、うまく言いくるめられただけのような気がした。
「だけどさ、メレキ。きっとアモルは不安なんだと思うよ。たった独りになってしまったこと、トラウマになってると思う」
「独りになってしまった寂しさなら、私にだってよく分かるわ」
 不満をぶつけるつもりで言い返すと、意外にもマーヴィは笑みを浮かべた。
「だったら、君が求めていることをアモルにしてあげたらいい。君は独りで寂しいとき、何をしてもらいたい?」
「私が、してもらいたいこと…?」
 しばらく黙って、メレキは考え込む。
 やがてメレキはその問いに、自分なりの答えを見つけ出した。

             ***

 すっかり陽が落ちてから、メレキは宿に戻ってきた。宿には明かりがなく、寒々とした空気が漂っている。 いつもなら夕食の支度を始める時間なのに、カウンターにアモルの姿はなく、例の『ゴミ箱』にも誰もいなかった。
 メレキは階段を上がる。アモルの部屋から、わずかな光が漏れていた。
「アモル」
 軽くドアをノックしながら、呼びかける。返事はなく、代わりにすすり泣く声が聞こえてきた。アモルはこの部屋にいる。 そう確認できると、メレキはドアの前で一言だけ言った。
「アモルは、独りじゃないよ」
 全てを失い、ただ独りきりになってしまったとき、メレキが求めたのは自分を知ってくれる『誰か』の存在だった。 誰だって良かった。たとえそれが自分の敵だったとしても、自分の存在を認めてくれるのなら構わなかった。
 それがアモルに共通することかどうか、自信はない。けれど、今のメレキに言える精一杯のことはこれだけだった。
 メレキはドアの前にじっとたたずんで、アモルの応答を待つ。 かえって傷つけてしまっただろうか――静けさに不安を感じ始めた頃、不意にドアが開いた。
「メレキ…」
 れた声。泣き腫らした目。 メレキはアモルを黙って見つめた。微笑みかけてあげられたらいいのに、うまく笑顔を作り出せない。
「私も独りだった。でも今は、アモルやエウリたちがいる」
 代わりに、メレキはそんな言葉をかける。アモルの口許に微かな笑みが浮かんだ。
「そっか。あんたも、そうだったんだよね…」
 メレキの背中にアモルの両手が回される。自分と同じ存在の体温が、確かに伝わってきた。
 アモルは独りじゃない。同時に自分も独りではないという事実が、暖かくメレキの心を包む。
 メレキもそっと、アモルを抱き返した。



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