5.絡み合う想いの果てに


「ねぇ、彼の居場所は掴めたの?」
 人気ひとけのない路地裏で、青年が二人向かい合っていた。 二人とも、夜闇の中で身を隠そうとしているのだろう。黒い服を身につけている。 しかし青年のうち片方は銀髪で、その色は月明かりにしっかりと浮かび上がってしまっていた。
「何度も言っているだろう。アイツの魔力は『拡散』だ。アイツは俺に見つからないように、シャングリ・ラ全体に魔力を広げているさ」
 銀髪の青年の問いに、もう一人の青年は溜め息混じりに答える。こちらの青年は建物に寄り掛かっているため、ほとんど陰と同化していた。
「だけど君、言ってたじゃないか。彼は魔力を使うとき、一カ所に力を集中させるって。彼は確実に動き始めてる。君も、何にも感じていないわけじゃないんでしょ?」
「ああ。でも、アイツが魔力を使う時間が短すぎるんだ。俺が場所を特定する前に、アイツはまた力を拡散させちまう。 それに俺だって、常に神経を尖らせてアイツの魔力に気を配っているわけじゃない」
「でも、放ってはおけない。彼は――レントは、ここを壊そうとしているんだよ?」
「間違ってはいないさ。こんな場所、いつかはなくなっちまった方がいいんだ」
 投げやりにも聞こえるその言葉に、 銀髪の青年は苛立いらだちをあらわにした。
「そうかもしれないけど、それは今じゃないだろ? 今ここを消されてしまったら、ここにいる人たちは絶望の中に戻るんだよ?」
「分かってるさ、そんなことは。何とか出来るんだったら、もうやってるんだよ。でも……どうにもならねぇんだよ」 
 苦しそうに吐かれた言葉に、銀髪の青年は口をつぐむ。しばらく冷たい沈黙が続いた後で、陰と同化した青年は建物の壁から体を離した。 今日はこれでお開きだ、と言っているのだ。
「…力になれなくてゴメン」
「そんなことねぇよ。アンタのお陰で、随分気が楽になる。また今度、同じ時間に、ここで」
「うん。……気を付けてね。君、疲れてるみたいだ」
「気を付けるのはアンタの方だ、マーヴィ。レントにとって、アンタの存在は邪魔になる。怪しい奴には関わるなよ。絶対に殺されるんじゃねぇ」
「大丈夫だとは思うんだけどね」
 マーヴィが肩を竦めて微笑むと、青年の口許が安心したように緩んだ。
「じゃ、アイツのこと、頼んだからな」
 マーヴィは笑って、強く頷く。
「うん。またね」

            ***

「えぇ!? 行方不明事件!?」
 夕食の準備をしながら客と話をしていたアモルが、素っ頓狂な声を上げた。
「本当なんだよ、アモル。俺たちの仲間も何人かいなくなっちまってるんだ。なぁ?」 
「そうなんだよ。もう一ヶ月近くいなくなってる奴もいるんだ」
「オレの知り合いもだぜ!」
 客は口々に言い、騒ぎ立てる。
「本当に、何処にもいないの?」
 料理の乗った皿を並べながら、メレキは訊ねた。平和なシャングリ・ラに似合わない物騒な話が気になったのだ。
「ホントにホントなんだって! この前も宝石店で店長を殴った奴がいたとか言うし、いよいよここも危ないんじゃねぇのか?」
 客の言葉に、メレキは思わずかっと頬を赤らめる。 それは多分、メレキのことだ。もう忘れかけていたのに、いつの間にか噂になって広がっていたのだと思うとばつが悪かった。
 そんなことを知らないアモルは、メレキを不思議そうに見つめている。
「どうかしたかい?」 
「何でもない…」
「がっはっは! なんだぁ、メレキ? 赤くなっちまって、カワイイなぁ! おい!」
 だいぶ酒が入っているらしく、客の一人が下品な笑い声をあげる。アモルがすかさずメレキの前に立って両手を広げ、客を睨んだ。
「黙りな! メレキに変な病気移さないでちょうだい!」
「おいおい、病原菌扱いするこたぁねぇだろ」
 客は不満そうに言いながらも、笑みを絶やさない。アモルの宿に来るのは、大抵こんな輩ばかりだ。 確かにちょっと品のない人たちだが、メレキはこの人たちとアモルの賑やかなやり取りが好きだった。
「とにかく、あんたたちも用心しとけよ? 俺たち、ここ気に入ってるんだから」
「はいはい。ま、人さらいの前にあんたたちに用心しなきゃいけない気がするけどね。 可愛いメレキが襲われないように」
「しつこいな、アモルは!」
 明るい笑い声が、宿に響き渡る。
 何の緊張感もないこの騒々しさの中では、行方不明事件が起こっていることなど、メレキに本気で信じることは出来なかった。

            ***

 客が寝静まると、メレキは街に出た。三日に一度『ロスト・シープ』に足を運ぶことが、いつの間にかメレキの習慣になっていた。
 今日は天気が良くない。真っ黒な空を厚い雲が覆っていて、これから雨が降ることは容易に予測できる。 だが、習慣化している以上はちゃんと行かないと落ち着かなくて、メレキは今日も出掛けることに決めたのだった。
 『ロスト・シープ』でメレキがすることと言えば限られてくる。 一番安い酒を飲みながら誰かの話を聞いているか、賭け事に興じる客を眺めているかだ。 それだけのためにわざわざ出掛けるのは変かもしれないが、メレキは色々な人が訪れる『ロスト・シープ』の光景が好きなのだった。
「やぁ、メレキ。こんばんは」
 『ロスト・シープ』のドアを開けると、いつものようにマーヴィが出迎えてくれた。 メレキはマーヴィに無言で会釈を返し、店内を見やる。いつもの賑やかさはなく、そこには誰もいなかった。
「さっきまでラーレがいたんだけど、帰っちゃって。天気の所為か、今日は人がいないんだよね。メレキは大丈夫なの? 帰り、雨かもしれないけど」
「うん」
 たまにはこんな日があってもいい。それ以上の感想を抱かずに、メレキはカウンターの端、ドアの一番近くの席に座る。
「いつものでいい?」
「うん」
 マーヴィが酒を持ってくる頃、いよいよ雷鳴が轟き始めた。併せて風がうなり、強い雨が窓を打ち始める。 しんと静まった店内に、嵐の合奏は不気味に響いた。
「外、酷いなぁ。イェシル、大丈夫かな」
 マーヴィはメレキの向かいに腰を下ろし、心配そうに呟く。そういえば今日は、客だけでなくイェシルもいない。
「イェシル、出掛けてるの?」
「それが、分かんなくてさ。気が付いたらいなくなってた。何も言わずに何処かに行っちゃうなんてこと、今までなかったのに」
 メレキはふと、先刻の宿泊客の話を思い出した。
「最近シャングリ・ラで、行方不明事件が起こってるって聞いたけど」
「うん、僕も聞いてるよ。でも、イェシルはきっと平気。飽くまで僕の想像だけど、イェシル、エウリの所に行ったんだと思うんだよね」
 意外な言葉に、メレキは目を瞬いた。
 エウリは一ヶ月前にイェシルに厳しく言われてから、ほとんど『ロスト・シープ』に来ていない。 以前は週に二回ほどアモルの宿にも来たものだが、ここのところ一週間は、街の何処にもエウリの姿はなかった。 メレキは心配し始めているが、イェシルはどうなのだろう。彼女のことだから、エウリが視界に入らなくて清々していそうなものだが。
「マーヴィはどうしてそんなふうに思うの? イェシル、あんなにエウリを嫌っているのに」
「嫌ってなんかいないんだよ。イェシルはむしろ、心配してるのさ。エウリのこと」
 メレキは首を傾げる。いつもの二人の様子を思い浮かべると、そんなことは絶対に想像できなかった。マーヴィは言葉を続ける。
「エウリ、ああ見えて強がりなんだよ」
「どういうこと?」
 訊ねると、マーヴィは哀しげに笑った。
「エウリはシャングリ・ラに来たとき、一番最初にこの酒場を訪れたんだ。今でこそ彼は明るいけど、その時はすごく暗い顔してた。 ここに初めて来た人が、みんなそうであるようにね。
 何があったかは、ここのルールに従って訊かなかったけど…彼は泣いてたんだよ。僕とイェシルがいる前で」
 メレキは言葉を失う。エウリの笑顔が崩れて涙が零れるところなんて、どうしても想像できなかった。
「でも、今はもう大丈夫なんでしょ?」
「そうとも言い切れないかもね」
「どうして?」
「メレキは、彼がいつもお酒を大量に飲むのをおかしいと思わない?」
 メレキは、いつものエウリの様子を思い浮かべる。アモルの宿にいても『ロスト・シープ』にいても、常に酒を片手に談笑しているエウリ。 その姿を不審に思ったことなど、今までなかった。
「確かに飲み過ぎだとは思うけど。でも、ただお酒が好きなのかなって」
「そんなんじゃないんだよ。エウリは、ああでもしないと眠ることさえ出来ない。全然そんな素振りを見せないけど、彼は自分の傷を閉じ込めるのに必死なんだ。 イェシルは、そんな彼に苛立ってる」
 メレキの頭に、一ヶ月前のイェシルの言葉が蘇る。
 
 ――いつまでも縛られるなとか、楽しいことを考えろとか……そんな言葉、どうしてあなたが言えるんですか!?

 今、改めて考えてみると、イェシルはエウリの無責任さに叫んだのではない。自分の傷から目を背けるようなエウリの態度に、哀しみと怒りを覚えたのだ。
「イェシルは、もっとエウリに弱みを見せてもらいたいんだと思う。 イェシルはああいうふうに強がってる人を見ると、心配になっちゃうたちなんだよ。 最近エウリがここに来ないことも、気にかける素振りを見せてたし。だからイェシルはきっと、彼の所に行ったんだよ」
 マーヴィは確信があるようだった。
「エウリって、何処に住んでるの?」
「実は、知らないんだよね。店を構えて何か商売をやってるみたいなんだけど。そうそう、彼、結構お金は持ってるんだよ」
 メレキはエウリに助けてもらった日のことを思い出す。今思えば不思議だった。 一度面識があったとはいえ、ほとんど赤の他人に近いメレキのために、エウリはわざわざ大金を払ったのだから。 エウリはもしかしたらマーヴィの言う通り、掃いて捨てられるほどの財産を抱えているのかもしれない。 
「こんな時間になっても帰ってこないんだから、イェシル、きっと彼の居場所を捜すのに苦労してるんだね」
 マーヴィは時計を見上げる。そろそろ日付が変わる時間だ。
「…みんな、同じなのね」
 メレキは俯いた。
 アモルも、エウリも、そして、メレキも。ここにいる人は、みんなそうなのだ。 傷を胸の奥に仕舞しまいながら、毎日を生きている。 ここは傷を癒す光を求める場所だと聞いていたのに――傷は、いつになっても治らないのだ。
「サバハとアクシャムの間に戦争なんか起こらなければ、こんな場所が生まれることもなかったかもしれないのにね」
「やっぱり、エウリを苦しめるのも戦争なの?」
「分からない。でも、僕とイェシルは、そう」
 マーヴィは表情を苦しそうに歪め、瞳を伏せる。
「得るものなんて、死体の山だけなのに。くだらない理由で、こんなことして」
「あなたは戦争の原因を知っているの?」
「うん。戦争の原因は魔女だ。サバハとアクシャム、それぞれに住んでる魔女たち」
 マーヴィは暗い面持ちのまま、説明してくれた。
 アクシャムでは、魔女が当然国の権力を握る者と見なされているのに対し、サバハでは、魔女が魔力で民を屈服させるべきでないと考えられていた。
 魔女の魔力は、遺伝でのみ伝わる。やがてアクシャムには直系の強力な魔女たちが増え、サバハには、ハーフ以下の弱い魔女たちが増えていった。
 そのまま何もなければ良かったのだ。だが、残念ながらそうはならなかった。
 サバハに強力な魔女が減ったと知ったアクシャムの王は、攻め入ってサバハをアクシャムの一部にしようと考え始めたのだ。
 また、サバハの方もアクシャムの強力な魔女の存在を恐れ、アクシャムを潰してその恐怖から逃れようと考え始めていた。
 両国はいつの間にか、きっかけさえあればいつでも戦争が始められる状態になっていたのだ。
「ヴェルム歴1334年。そのきっかけが、ついに訪れた。アクシャムの王が死んで、まだ幼い王子が王位に就いたんだ。そこを、サバハが狙った」
 それから1339年まで――メレキがここに来る二年前まで、五年間も戦争は続いた。
「メレキは、戦争が終わった理由は知っているの?」
 メレキは頷く。ラルゴが話してくれたことがあるのだ。よく覚えていた。
「サバハの城下町に攻め込んだアクシャムの兵士が、誰一人残らず殺された」
 戦争が終わって二年経っても、その原因は不明だった。一体城下町で何があったというのか。とにかく、それでアクシャムは一切の戦力を失い、降伏せざるを得なくなった。
「そう。アクシャムの兵士が、皆殺しに――いや、正しくは消滅したんだな。たった一瞬でね」
 メレキは目をみはる。 マーヴィはメレキに一瞥いちべつもくれず、続けた。
「それで、やっと終わって。だけど突然サバハの王が病死して、国は混乱して。結局、勝ったサバハにだって利益は何もなかった。何のための戦争だったんだろうね」
「…よく知っているのね」
 メレキは半ば哀れむ気持ちで、マーヴィを見る。
「知ってるさ。僕も、戦火の中を駆けた兵士の一人なんだから」
 メレキは視線を落としかけ――そこで、ハッと気が付いてマーヴィを見た。恐ろしい考えが頭に浮かんだのだ。
「メレキ?」
 驚いたように見開かれたマーヴィの目を、メレキは容赦なく睨み返す。メレキは立ち上がり、叫んだ。
「あなたはサバハの人間なの!?」
 そうでなかったら、今ここにいるはずがない。サバハに攻め入ったアクシャムの兵士は、誰一人生き残っていないのだから。 それにマーヴィはアクシャムの兵士が皆殺しにされたのではなく、消滅したのだと言った。まるで、自分で見ていたかのように。
 マーヴィは座ったまま、メレキを静かに見上げる。無表情だった。
「…サバハの人間は嫌いかい?」
 メレキはマーヴィを睥睨へいげいしたまま、強く奥歯を噛んだ。
 マーヴィだけを憎むのは、きっと間違っている。そうと分かっているのに、メレキは込み上げてくる怒りを抑えられなかった。
 ラルゴが殺されたのは、奴隷商人が増えた所為だ。奴隷商人が増えたのは、難民が増えた所為。 難民が増えたのは、サバハの兵士がアクシャムを攻めた所為――元を辿っていけば、どうしてもいつかはマーヴィに行き着いてしまう。 全体から見れば小さな力だったとしても、彼がアクシャムと戦った事実はぬぐえない。
「サバハの人間が…あなたが……憎い」
「君のそんな目を見たのは初めてだ。その目――アクシャムの兵士と同じ目をしてる」
 いつになく、マーヴィの声が弱々しい。椅子に腰掛け、メレキに見下ろされるマーヴィは、なんだかとても小さく見えた。 それなのにメレキは、氷の眼差しを緩めることが出来ない。
「恨まれるのは当然なんだよね。僕がこの手で奪った命は、一つや二つじゃないから」
「…ッ!」
 言葉にならない叫びが喉元まで出かかった、その時だった。
「ただいま」
 ドアベルの音が、緊迫した店内に澄んだ音を響かせる。イェシルが帰ってきたのだ。 ずぶ濡れになったイェシルは、小さく震えていた。外はだいぶ冷えているようだ。
「お帰り、イェシル」
 マーヴィは何事もなかったかのようにイェシルに笑いかけた。メレキも黙って腰を下ろす。 イェシルまで巻き込むつもりはない。一時休戦だ。メレキは深く息を吐き、高ぶった感情を胸の奥に閉じ込めた。
「ごめんなさい、お兄様…。こんなに遅くまで…」
「いいよ、気にしないで。とにかく体を温めるのが先だ。今、タオルを――」 
 言葉は続かない。立ち上がったマーヴィはそのまま大きくよろめき、どさりと床に膝を着いた。
 はっとして、反射的にメレキは立ち上がる。マーヴィの顔はいつの間にか血の気が引き、蒼白になっていた。
「お兄様!」
 イェシルが駆け寄り、ぐったりとしたマーヴィの肩を支える。
「ごめんなさい! 私の所為で!」
「平気だよ、イェシル…。少し休めばなんてことない」
 マーヴィはイェシルの手を借りてふらふらと立ち上がり、歩き出そうとしてまた体勢を崩す。メレキは既に、先程の怒りなど忘れてしまっていた。
「イェシル、私も手伝う」
「大丈夫です、メレキさん。私一人でなんとかなりますから」
 イェシルはそう言い、マーヴィを支えて階段の方に消えていく。メレキはそのまま立ち尽くしていたが、やがて仕方なく椅子に腰を下ろした。 何か落ち着かない気持ちだ。しばらくすると、イェシルだけが階段を下りてきた。
「マーヴィは?」
「眠りました。疲れてるんですよ。すみません、ご心配をおかけして」
 イェシルはメレキの隣の席に座り、濡れた髪をタオルで拭き始めた。いつもと違って見えると思ったら、今日は髪を下ろしている。緑のリボンが見当たらない。
「イェシル…あなた、エウリの所に行ってたの?」
 訊ねると、イェシルは目を見開いた。
「まさか! どうして私があんな男の所に!?」
 言いながら、イェシルの頬が紅潮したことに気が付く。図星だろうか。
「エウリ、何か言ってた?」
「待ってください! 私はあんな男に会ってないです!」
 いつになく強い口調で、イェシルは言い返してくる。マーヴィの予想はハズレだろうか。しかし、イェシルの頬の赤みはまだ消えていなかった。
「メレキさんは、あの人のこと気になるんですか?」
 逆に訊かれ、メレキは戸惑う。気になる――のだろうか。返答に困り、メレキはただ小さく首を傾げた。
「気を付けた方がいいですよ? エウリには近づかない方がいいです」
「そう?」
「そう、って…。メレキさん、もしかしたらエウリのこと、好きなんですか?」 
 ――え?
 まったく想定していなかったことを問われ、メレキは思わず口を半開きにしてしまった。 何を言っているんだ、イェシルは。エウリに好意を抱いているのは、 寧ろイェシルの方なのでは――心でそう思いながらもメレキは、すぐに否定できていない自分に気が付いてどきりとする。 我に返ると、イェシルも予想していなかったらしく、呆気にとられた表情でメレキを見ていた。
 気まずい沈黙が流れる。どうしていいか分からず、メレキは俯いて、必死にこの場をやり過ごす言葉を探した。
「イェシル…。今日みたいに髪下ろしても、似合うと思う」
 我ながら、下手なことを言ったと思う。だが、混乱した頭ではそんな言葉しか見つからなかった。イェシルはどんな行動に出るだろうか。 困ったようにメレキを見つめ、目を瞬くか――あるいは、メレキを笑い飛ばすだろうか?
 メレキは恐る恐る顔を上げ、イェシルの様子をうかがう。 意外にもイェシルはメレキの方を見ることはせず、驚いたようにただ自分の髪の先を見つめていた。
「イェシル?」
 不審に思って呼びかけると、イェシルはそこでようやくメレキに目をやる。何故か焦ったような表情を浮かべていた。
「メレキさん。雨が酷いですし、今日は泊まっていかれてはどうでしょうか?」
「え…?」
 前後の繋がらないことを言われ、メレキは戸惑う。
「二階の一番左の部屋が空いているんです。だから」
 どうしていいか分からず、考える前にメレキは頷いていた。
「それでは、どうぞ」
 イェシルはメレキのグラスを片付け始める。どうすることも出来ずにメレキは席を立ち、促されるままに階段に向かった。
 どうして突然イェシルは話を逸らしたのだろう。すっきりしない気持ちのまま、メレキは階段を登る。すると、不意に酒場のドアが強く閉まる音がした。
 メレキは足を止め、一階に引き返す。カウンターに明かりはなく、イェシルの姿もない。
「イェシル…?」
 ドアを開けると、強い風が雨と一緒に吹き込んでくる。暴れる髪を押さえて目を凝らすと、雨の中を駆けていくイェシルの姿が見えた。
「イェシル! 何処に行くの?」
 返事はない。雷鳴の所為で声が届かなかったのだろう。イェシルの姿はだんだんと遠くなり、暗闇の中に消えてしまう。
 メレキは思わず、その背中を追って走り出した。

            ***

 容赦なく体を打つ雨で、メレキの服はぴったりと肌に張りついていた。風も冷たく、濡れた体からはどんどん体温が奪われる。 メレキは、荒く吐いた自分の息が白く曇っていることに気が付いた。
 だいぶ走ったが、メレキはイェシルを見失ってしまっていた。大して周りを見ていなかったために、いつの間にか見たことのない建物が並ぶ通りに出ている。 メレキは立ち止まり、顔にかかる髪をよせてイェシルの姿を捜した。
 一体、何処に行ってしまったのだろうか。メレキにあれだけ言っておいて、またエウリを捜しに行ったとは考えにくい。 そもそも、マーヴィが倒れてしまったというのに、それをおいてイェシルが出て行ってしまうというのが変なのだ。イェシルはそのような薄情な人間ではない。
 それに、イェシルがわざわざメレキに見つからないように出て行こうとした理由も気になる。 そこまでしてイェシルが向かわなくてはならない場所とは何処なのだろうか。
 立ち止まって考えていると、メレキはふと悪寒を覚えた。体が随分冷えている。早くイェシルを見つけよう。 イェシルだって、これ以上雨に打たれたら風邪を引いてしまうはずだ。
 メレキは自分の身を抱き締め、これ以上体温を持って行かれるのを防ぎながら、視線を巡らせて歩き出した。
 十分ほど歩いたのだろうか――狭い路地の前を通り過ぎたとき、メレキはようやくそこに、捜していた少女の後ろ姿を見つける。 悪寒がだんだん酷くなっていたので、安心した。二人で帰って、早く体を温めよう。
「イェシル。そんな所で何をしてるの?」
 路地に入り、そう声をかける。
 返事はない。メレキは小さく首を傾げた。
「イェシル…?」

「いやぁぁぁぁぁッ!!」

 突如、嵐の轟音を裂いてイェシルの甲高い悲鳴が響き渡った。
「イェシル……!?」
 はっと目を瞠る。イェシルが足下に崩れる。
 メレキの頬が何か生温かいものに濡れた。雨とは違う。気が付けば頬だけでなく、メレキは胸や手にも同じものを浴びてしまっていた。
 鼻を突く臭いがする。思わず息を呑む。
 メレキはそれが何なのか、よく知っていた。ラルゴが殺されたあの日、あの場所に立ち込めていた臭いと同じだったから。
 ――脳裏にこびりついた、血の臭い。
 メレキは愕然として立ち尽くす。頭が真っ白になった。
 足下に倒れたイェシルは、微動だにしない。空に走った稲妻が、その無惨な姿を照らし出す。 イェシルの胸を易々と貫通した一振りの剣が、気味悪くぎらりと反射した。
 同時にメレキは、その向こうに誰かの気配を感じる。顔は見えないが、イェシルを殺した犯人だと思って間違いはないはずだ。 メレキは体の震えを抑えつつ、人影を凝視した。
 人影は、イェシルの遺体にそっと手をかざした。 その手に吸い寄せられるように、イェシルの体は光の粒子となって崩壊し始める。 数秒だったか、数分だったか――やがてイェシルの遺体は血だけを残して消滅し、光の粒子は全て人影の手の中に収まっていた。
 人影はメレキに気が付いていないらしい。イェシルの胸を貫いていた剣を拾うと、そのままメレキに背を向けて去っていく。
 逃がしてはおけない。だが、金縛りにあったようにメレキの体は動かず、叫ぼうと口を開けても声が出てこない。
 再び雷鳴が轟く。濡れた建物の石の壁に、メレキは一瞬自分の姿が映ったのを見た。
 ――血に汚れ、おびえきって凍り付いている、あの時と同じ自分の姿が。
いや…」
 建物の壁に背中から倒れ込み、そのままずるずると崩れ落ちる。頭の中に残酷な記憶が蘇り、もう何も考えられなかった。
 最後の血の一滴が流れてしまうまで、古傷が深くえぐり返される。
 手も足も動かせない。
 吐息は震え、まともに呼吸することさえ叶わない。
 意識を持って行かれるまで、メレキは瞬き一つせず、雨と混ざって流れるイェシルの血液を見つめていた。
 生気のない瞳で世界を見下ろす、一体の哀しい人形のように。



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