7.相反する二つの力


 青年には週に一度、一人の男と会う習慣がある。
 その日、青年は待ち合わせ場所の路地まで来ると、異変に気が付いた。 待ち合わせ場所に誰もいないのだ。青年が相手を待たせてしまうのが常なのに、こんなことは初めてだった。
 何かがいつもと違うとき、人の胸にぎるのは不安だ。 青年は周囲をじっと観察し、それでも誰もいないことが分かると、静かに目を閉じる。
 いつも会っている魔女の男と同様に、青年もまた魔女だった。 一人ひとりの人間の性格に個性があるように、魔女の魔力にもそれぞれ違った『形』がある。 強力な魔力を持っているが故に、青年はそれを感じ取り、魔女がいる場所を特定することが出来るのだった。
 目を閉じてまず感じるのは、レントの魔力。 『拡散』の能力によってシャングリ・ラ全体に広がっている彼の魔力は、いつも青年の邪魔をする。 青年はレントの力を振り切るように意識を集中させ、目的の魔力の『形』を捜した。
 見つかるまで、いつもの倍の時間を要した。何があったのか、青年が待っている魔女の魔力は驚くほどに弱まっている。 青年は魔女の魔力が低下する状況を、二つしか知らなかった。
 一つは、レントのように魔力を薄く広げたとき。 しかしこれが出来るのはごく一部の魔女で、自分が待っている男にそんな力がないことを青年は知っていた。
 それならば、彼が置かれているのは必然的にもう一つの状況ということになってくる。青年の額に、嫌な汗が浮かんだ。
 二つ目の状況――それは、魔女が死に瀕しているときである。

            ***

 四日間ほとんどベッドで横になっていた所為か、メレキは今朝いつもよりも早く目が覚めた。 充分に休められた体は軽く、もう熱を出す前のように動かすことが出来るだろう。 メレキは手早く着替えを済ませ、部屋を出る。
 階段を下りると、ばたばたと駆け回る忙しそうなアモルの姿が目に飛び込んできた。
「アモル、どうしたの?」
「ああ、おはようメレキ。マーヴィが大変なんだ。悪いけど、包帯取ってきてくれない?  あたしの部屋の引き出しにあるからさ」
 メレキは頷き、包帯を取りにアモルの部屋に向かう。しかし、どうして包帯が必要なのかメレキには分からなかった。
 包帯を取ってくると、メレキはすぐにマーヴィが寝ている客室に入る。アモルが慌てていたから、急いだ。
「アモル、持ってきた」
「ありがと。…マーヴィ、すぐに手当てするからね」
 アモルは包帯を受け取ると、マーヴィの左腕をゆっくりと持ち上げる。その腕を見て、メレキは思わず息を呑んだ。
 傷だらけだ。血は滲むと言うよりも流れ出していて、アモルのエプロンに赤い染みを作っている。
「それ、昨日の傷…?」
 食器棚を殴りつけたとき、マーヴィが手を切ってしまっていたのをメレキは見ていた。だが、アモルは首を横に振る。
「違うのよ。よく見て、メレキ。硝子で切ったような傷じゃないでしょ?」
 確かにマーヴィの傷は、まるで刃物でえぐってしまったように深い。 皿の破片程度でこうはならないだろう。
「魔力を暴走させた後遺症で体が弱るって、エウリが言ってたけど……これがそういうことなのかな」
 マーヴィの腕に包帯を巻いてやりながら、アモルがつらそうに呟く。
「マーヴィ。傷、痛む?」
 メレキはマーヴィに近づき、静かに訊ねた。
「平気。我慢、できるよ」
 そうは言うもののマーヴィは、微笑みながら顔をしかめている。 額に脂汗をかき、痛みに小さくうめくマーヴィは、見ていてとても痛々しかった。
「何か食事を用意してくる。その間、マーヴィのことよろしくね」
「うん」
 アモルが出て行くと、メレキはベッドのすぐ横に膝を折り、毛布の端でマーヴィの汗を拭ってやる。
「ありがとう、メレキ」
 マーヴィは包帯に覆われた腕を重そうに上げ、メレキの髪を優しく撫でた。真新しい包帯にはもう、血が滲み始めている。
「あまり動かさない方がいいわ。出血が酷くなる」
「そうだね…。でも左手まで失ったら、もう君に触れることは出来ないから。まだ、この手が動くうちに」
「右手と右足も、こんなふうにして失ったの?」
「うん。だけど、右手と右足のときはもっと進行が早かった。出血して数分もしないうちに、肉体が腐ったからね。 でも、今回はまだ大丈夫。だんだんと弱まってきてるけど、辛うじてイェシルの魔力が働いてるみたいだ」
 マーヴィは何でもないことのように言ったが、メレキはぞっとした。 イェシルの魔力が解けてしまえば、いずれマーヴィは左手も左足も失うことになるのだろう。 その後はどうなってしまうのだろうか。この左手のように、マーヴィの体が無数の傷に蝕まれる――? 想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
 何とかしてあげたい――本気でメレキはそう願う。マーヴィがアクシャムと戦ったという事実は消えないが、そんなことは最早どうでもいいのだ。 目の前で苦しんでいるのは憎むべき敵軍の兵士ではなく、メレキの大切な友人の一人なのだから。
「私、あなたに何をしてあげられる? どうすれば楽にしてあげられる?」
「メレキはもう充分、僕にいろんなことをしてくれてるよ。今だって汗を拭いてくれた」 
「だけどそれだけじゃ、あなたの体は…!」 
「仕方ないんだよ、メレキ。本当は、僕は死んでいるはずの人間だ。それがイェシルのお陰で、今まで生き延びてこられた。 イェシルを失った今、こうなってしまうのは必然なんだ。もし何処かにイェシルと同じ魔力を持つ魔女がいるなら、話は別かもしれないけどね」
「それならば、その魔女を捜すわ!」
「…そんな魔女はいないよ。言ってみただけ。僕やイェシルは特別なんだ。僕らの魔力の形は、サバハでもアクシャムでも珍しい。 それに、もし本当にそんな魔女がいたとしたって、都合良くシャングリ・ラに来ているかな」
「だけど、何もしないよりはマシでしょ?」
「メレキ…」
 マーヴィは遠くを見るような眼差しで、メレキを見つめる。
「私、あなたを助けたいの。もう、何も出来ずに誰かを失うのはいやだから」
「そっか。メレキは、優しいね……」
 メレキを撫でていたマーヴィの手が、不意に力を失ってだらりと下がった。
「マーヴィ!」
「ごめん。ちょっと、クラッときちゃった」
 マーヴィの息遣いは、いつの間にか乱れている。しかし、それでもマーヴィは笑顔を消さない。
 メレキはマーヴィに毛布をかけ直してやると、アモルが来るまでずっと、マーヴィの傷ついた左手を握っていた。

            ***

 昼間のシャングリ・ラも、以前と比べれば随分と静かだった。皆、行方不明事件を警戒しているのだろう。 イェシルも殺されているし、いなくなってしまった他の人たちだって、まだ見つかったという話は聞いていない。 家からなるべく出ない方が安全なのは、確認するまでもなかった。
 だがそれでも、メレキは街に出ていた。どうしても会わなければならない人がいたのだ。 彼女はきっと今日も、いつもの場所に佇んでいるはず――メレキは通りの脇に、目的の人物を発見する。
「ラーレ!」
「あ…! メレキのお姉さん…っ!」
 メレキを見つけたラーレの瞳は、涙に濡れていた。メレキが側に来るなり、ラーレはその手をメレキの背中にぎゅっと回す。 程なくしてラーレが嗚咽を漏らしたので、メレキはどきりとした。
「ラーレ?」
「さっき、エウリに聞いたの…。ここのところ『ロスト・シープ』もアモルのお姉さんの宿も開いてなくて、 メレキのお姉さんやイェシルちゃんも見かけなかったから、ずっと心配してたんだ…。そしたら、イェシルちゃんが殺されたって、そう聞いて…!」
 ラーレはしゃくりあげ、声を詰まらせる。メレキはラーレの震える背中を、そっとさすってやった。ラーレが落ち着くまで、しばらくそうしていてあげたい。 だが、こちらにはあまり時間がなかった。やむを得ず、メレキはラーレの背中から手を離す。
「ラーレ。こんな時に悪いって、そう思うんだけど…。マーヴィが大変なの。マーヴィは前にサバハで魔力を暴走させたことがあって、それで」
「知ってるよ。それで、弱っているんでしょ?」
 ラーレは涙をごしごしと擦りながら、メレキを見上げた。
「エウリに聞いたの?」 
「聞かなくても、分かるの。でも、わたしの魔力じゃどうにも出来ない。お姉さんにも分かるでしょ?  わたしの魔力は、人に夢を見せること。イェシルちゃんみたいに立派な魔力は持ってないの」
 メレキは瞳を伏せ、強く奥歯を噛む。こんな答えが返ってくることを、予想はしていた。しかし、メレキの知る魔女はラーレだけだったのだ。
「マーヴィを助けられなくても…それでも、お願い。宿まで来て欲しいの」 
「どうして? わたしなんか、邪魔になるだけだよ?」
「そんなことない。だって今、マーヴィに会いに行かないと――」
 メレキは意を決して、言う。
「マーヴィにはもう、会えなくなってしまうかもしれないから」

            ***

 ラーレを連れて宿に戻ると、いつの間にかエウリも来ていた。
「マーヴィは…?」
 カウンター席に座っているエウリとアモルに、メレキは問いかける。二人は揃って暗い表情をしていた。
「寝てるけど、だいぶ弱ってるぜ」
「食事もまともに摂れないんだ。…どうすればいいんだろう」
 アモルのエプロンが、今朝よりも血に汚れている。出血も酷いのだろうか。
「わたし、会いに行っても大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ、ラーレ。あたしも行く。もう一回包帯を替えた方がいいかもしれないからね」
 ラーレとアモルの後に、メレキとエウリも続いた。本来は二人用の客室に、五人が集まる。 ラーレがマーヴィに近づくと、気配を感じたのか、マーヴィはゆっくりと目を開けた。
「やぁ。久し振りだね、ラーレ。ちょうど良かった。君に頼みたいことがあったんだ」
「わたしに…?」
 ラーレは困惑した様子で、マーヴィの瞳を覗き込む。
「そう。君の魔力で、僕の過去をみんなに見せてあげて欲しいなって、そう思って。過去を覗くだけじゃなく、そういうことも出来るんでしょ?」
 ラーレの目が、驚愕に見開かれた。
「知ってたの…!?」
「イェシルに教えてもらった。イェシル、鋭い子だから」
「何のこと?」
 話についていけなくなったアモルが口を挟む。ラーレはばつが悪そうに、ぼそぼそと言った。
「魔女が、二つの力を持っているって話は知ってる…?」
「うん。聞いたことはある」
 メレキも聞いたことがあった。魔女は必ず、正と負の魔力を同時に持つのだという話を。
「わたしが持っている魔力は、『希望』と『絶望』。『希望』はもちろん、みんなに夢を見せる力。そして、『絶望』は――」
「夢を見せている人の過去の悪夢を、垣間かいま見る力」
 ラーレの言葉を受け取り、マーヴィが答える。ラーレが辛そうに俯いた。
「わたしはみんなに夢を見せる代わりに、みんなの過去を覗いてたんだ。 アモルのお姉さんの過去も、メレキのお姉さんの過去も、マーヴィのお兄さんやイェシルちゃんの過去も…」
「どうしてそんなことしたんだよ」
 エウリが静かな怒りをたたえた表情で、ラーレを睨む。
「わたし、ここにいる人たちの傷を癒してあげたくて。そのためにまずは他人の過去を知ることが大切だって、そう信じてたんだ。 …でも結局、わたしにみんなの傷を癒してあげることは出来なくて」
 沈黙が訪れる。メレキはラーレから視線を逸らした。
 別に、過去を知られたって問題はない。けれども、いつの間にか覗かれていたのだと思うと、落ち着かない気持ちになるのは仕方なかった。 エウリに過去を知られていたのに気が付いたときと、同じ気持ちだ。
「それで、マーヴィ。どうしてあんたは過去を見せたいなんて思うの?」
 アモルが静寂を破る。その口調には、隠しきれない苛立ちが混ざっていた。アモルもきっと複雑な心境なのだ。
「君たちに知っておいてもらいたい事実がある。自分で話すことは難しい。だから、ラーレに」
 マーヴィは弱く微笑んで、ラーレをちらりと見やる。
「マーヴィのお兄さん、でも…」
「お願い、ラーレ」
 マーヴィに押されると、ラーレは覚悟を決めたように口を真一文字に結び、メレキたちを見つめた。
「…目を閉じて。わたしがみんなに、夢を見せたときみたいに」
 静かに瞳を閉じると、夢を買ったあの時のように周囲の空気が変わる。 だが、あの時のような暖かさはない。 メレキたちを覆う空気は、思わず身震いしてしまいそうな冷たさをはらんでいる。
 ――それじゃ……行くよ。


 はっと気が付くと、メレキたちは見晴らしのいい塔に立っていた。塔の下には、町。 すぐ後ろには城が建っている。壁を白くし、窓を小さくするのは、強い日射しを防ぐ工夫だと聞いたことがあった。 比較的穏やかな気候のアクシャムにはない造りである。
「ここは…」
「サバハの城下町さ」 
 メレキは目をみはった。隣にマーヴィがいたのだ。
「立っていられるの…!?」
「うん。平気みたいだ」
「ここは、夢の中みたいなものだから。わたしたちは今、意識だけの存在なの。ここにいる人たちには見えない」
 エウリとアモルの隣に並んだラーレはそう言って、真っ直ぐ前を見やる。その視線の先には、鎧に身を包んで佇む一人の青年の姿があった。 記憶の中のマーヴィだ。まだ右手がある。鎧に隠れて見えないが、恐らく右足もまだ自分のものなのだろう。今のマーヴィよりも立ち方が自然だった。
「ここは、ヴェルム暦1339年。ご存じの通り、戦争が終わった年だ。ここに僕やイェシルの傷――君たちに見せなくちゃいけない事実がある」
 マーヴィが呟く。メレキはじっと、過去のマーヴィの背中を見つめた。これからここで何が起こるのだろう。 メレキの胸を覆うのは好奇心ではなく、とてつもなく大きな不安だ。少なくとも、これから起こるのは喜ばしいことではないはずだから。
 記憶の中のマーヴィは、塔から城下町を見下ろしていた。あまり高い塔ではなく、人々の明るいざわめきが充分耳に届いてくる。 思わず身を任せたくなるような、穏やかで平和な情景だ。しかしそれを眺めるマーヴィの瞳は、獲物を狙う鷹のように険しい。
「お兄様!」
 ばたばたと塔の階段を駆け上がってくる少女がいた。 泥と血に汚れた長い白衣をまとい、乱れた髪を整えることもせず、 息を弾ませてマーヴィの許に向かっていく少女――イェシルだ。
「イェシル! 帰ってたんだね」
 マーヴィは駆け寄ってきた妹を見ると嬉しそうに微笑んだ。だがその笑顔も、イェシルの様子を観察するとすぐに消えてしまう。
「…相変わらず酷いね。少し痩せたよ。また、ろくに休めなかったの?」
「私は大丈夫です。お兄様こそ、お疲れではありませんか?」
「心配してくれてありがとう。でも、平気だよ」
「…お兄様」
 イェシルの顔が、突然苦しげに歪んだ。今にも泣き出してしまいそうな様子だ。
「どうしたの?」
「報告が、あるんです」
「報告? 何?」
「フラメの診療所から、十五人の患者がいなくなりました」
 それを聞くと、マーヴィは怪訝そうな顔をした。
「フラメの診療所…。確かそこにいたのは、兵士の魔女たちだったね。いなくなったってどういうこと?」
「分からないんです。休憩時間に入って目を離した三十分の間に、誰もいなくなっていて…。 そこにいたのは、自力で動けないほどの怪我を負った魔女ばかりだったのに」
 イェシルの瞳から、涙が零れる。
「周りに死体は見当たりませんでした。もしかしたら、アクシャムの兵士に連れて行かれたのでしょうか?  奴隷にするため…あるいは、アクシャム側に立って戦わせるために」
「考えすぎだよ」
「だけど、彼らを助けられなかったのは看護隊長である私の責任です! これ以上、尊い命が奪われてはならないのに!」
「イェシル、やめて」
 マーヴィはイェシルの両肩に手を置き、鋭い目つきでイェシルを牽制けんせいした。
「後悔するのは、この戦争が終わってからでいい。今はそんなことをしている余裕はないんだ。 僕にだって、自分の所為で死なせてしまった戦友が何人もいる。彼らのために、僕らがこれからすべきことは何か?  ――それは、今からこれ以上沢山の人を死なせないことだ。その代わり戦争が終わったら、彼らを精一杯弔ってあげよう」
 その言葉を聞いて、メレキの胸が疼いた。メレキは間接的に戦争の被害者であるが、実際に戦場に立ったことはない。 失った人を悼むことさえ許されない状況というのは、一体どれくらい苦しいのだろうか。メレキには想像できない。
 マーヴィは静かに笑うと、右手で乱れたイェシルの髪を撫でた。その時、メレキはその指の動きの不自然さに気が付く。
 よく見ると、マーヴィの右手には人差し指がない。
 マーヴィは四本の指でぎこちなくイェシルの髪をくと、イェシルに背を向けて町に視線を戻した。
「さぁ、イェシル。もう城に帰った方がいい。次はいつ帰ってこられるか分からないんだから、ゆっくり休んでおいで」
「お兄様は?」
「僕も、じきに戻るよ。今はただ、一人で考え事をしたいんだ」
「あまりご心労をなさらないでください。お兄様は、お体が強くはないのですから」
「余計なお世話だよ」
 マーヴィは揶揄やゆするようにそう言って、微笑む。
「それでは失礼します」
「うん。またね、イェシ――」
 マーヴィの声は、途中で轟音に掻き消された。
 爆音だ。立て続けに、四回。熱い風が、塔の下から黒い煙と人々の悲鳴を運んでくる。
「何…!?」
 マーヴィたち、そしてメレキたちが目を瞠った。 濛々もうもうと吹き上がる灰で、視界がはっきりしない。 それでもメレキは目を凝らし、突然の炎に包まれた城下町をじっと眺める。幾つもの黒い旗がはためいているのを見つけると、メレキは絶句した。
 黒い背景に、刃のように細くて鋭い月と、白い羽根がデザインされた旗――アクシャムの王家の旗である。
「どうして…!? どうしてアクシャムの兵士がいるの!?」
 マーヴィが叫ぶ。その表情には焦りと、それ以上の恐怖の色が浮かんでいた。
「アクシャムの魔女が近くにいるなら、城の者が感じ取れたはずだ! それなのに、どうして!」
「もしかしたら、魔女ではなくて普通の人間では!」
 マーヴィがイェシルを振り返る。
「どういうことなの!?」
「アクシャムでは魔女が減ってきていると、そんな噂を…。でも、はっきりしたことはまだ分からなくて…!」
「…きっと、間違ってないよ。そうじゃなきゃ、城の者が気付かないはずがない」
 強く奥歯を噛み、マーヴィは黒い旗をめ付けた。
「どうして兵士に、魔女ではなくて普通の人間を起用する! こちらの目的は、サバハをアクシャムの魔女の脅威から守ることだ。 普通の人間と剣を交える理由はない!」
 町を焼く炎は時間が経てばそれだけ勢いを増し、罪のない民の命を灰に変えていく。
 固く握られたマーヴィの手が、震えた。抑えきれない悔しさと怒りが、メレキにまで伝わってくる。 マーヴィは素早く呼吸を整えた後で、右手を真っ直ぐ前に伸ばした。
「! お兄様!」
「イェシルは城にお帰り。王を連れて逃げるんだ。僕は、あれを何とかしないと」
「最後には私がお兄様の盾になると約束したはずです! 跡継ぎは私ではなく、お兄様なのですから! だから、先に逃げて!」
 イェシルが言い返すと同時、伸ばしたマーヴィの腕がびくりと痙攣けいれんし 予想していなかったのか、マーヴィは驚愕の表情で右腕に左手を添える。しかし右腕は、そこだけ意思を持つ生き物になったように、不規則に震え続けた。
 マーヴィはやがて諦めたのか、添えた手を下ろす。自由に動けるようになった右腕は、それまでよりも一層大きく痙攣した。 マーヴィは町を覆う劫火ごうかを冷たい眼差しで捉える。イェシルが息を呑み、すぐさま駆け寄った。
「やめて!! 今度はきっと、指だけじゃ済まないからッ!!」
 イェシルの声は、もう届かない。咆吼に似たマーヴィの叫び声が響き、鮮血のように紅い光が視界を潰す。メレキは思わず目を閉じた。
 強い風が巻き起こり、髪が暴れる。突然生まれたぴりぴりとした冷気が、肌に痛い。
 やがて辺りが落ち着き、目を開けられるようになると、メレキの心臓がどくんと跳ねた。
 視線の先に、四肢を投げ出して横たわるマーヴィの姿があったのだ。
「お兄様ッ!」
 イェシルが兄の肩を支え、体を起こそうとする。その手が血に濡れていくのを、メレキは見た。
 出血しているのは、右腕。それから右足だ。荒い息を吐くマーヴィは、動けそうにもない。
「町は…?」
 マーヴィの問いに、イェシルがはっと目を瞠る。塔の下に広がるのは、寒気がするほどの静寂。 アクシャムの兵士の声や爆音はないが、サバハの民の声も聞こえない。町を包んでいた炎は消え、焼け跡となった土地だけが虚しくそこに存在している。
「う…ッ」
 マーヴィの苦しげな呻き声に、イェシルは慌てて視線を戻した。
「お兄様、腕が!」
「城は、無事…?」
 イェシルは一瞬たじろいだが、すぐに強く頷く。
「大丈夫…! それより、早く手当てをしないと!」
「イェシル……見捨ててくれていい。僕は大罪を犯した」
「そんなこと言わないでください!」
 イェシルはマーヴィを支える手に、ぎゅっと力を込めた。
「助けるから…! 私、絶対に助けるからッ!!」 
 ――マーヴィの記憶はそこで、唐突に終わりを告げる。


 ふと気が付けば、メレキたちの意識は静かな宿の一室に戻っていた。
「僕の魔力は、『犠牲』と『実現』。僕は肉体を代償に、アクシャムの兵士を消したんだ。 ただ、あの時は気持ちばかりが先走ってしまって…。僕がハーフである所為もあって、魔力は暴走した。 つまり、僕が消したのはアクシャムの兵士だけじゃなくて、城下町にいた守るべきサバハの民」
「……マーヴィだったんだ。アクシャムにとどめを刺したのは」
 メレキはやり切れない思いでマーヴィを見る。マーヴィは辛そうに目を細め、しかし、瞳を逸らさなかった。 メレキの話を聞くときにはいつもそうするように、マーヴィは真っ直ぐにメレキを見据えている。
「数千人の人を消した。その代償は、本来ならば僕の全てをなげうっても足りない。 それでも僕がこうして生きていられるのは、イェシルの『緩急』の魔力のお陰だ。 イェシルは時の流れを調節する力を持ってた。それで傷の治りを早くしたり、病気の進行を遅らせたりして、戦場で負傷した兵士の手当てをしていたんだ。 イェシルは僕の肉体が、この左腕みたいになるのに歯止めをかけてくれた。もっとも、右腕と右足は間に合わなかったんだけどね。
 こっちに来てからも、三日に一度はイェシルの魔力が必要だった。でも、それも今はない。 今はまだ左腕だけで済んでるけど、そのうち左足がやられるだろう。最後は心臓。 僕と同じ魔力を持っていた祖母が、そういうふうに徐々に肉体を失って死んだんだ。きっと僕も、同じ道を辿るんだと思う」
 マーヴィの声は、恐ろしいほどに落ち着いていた。自分の死を受け入れた態度が、ラルゴの最期と重なる。メレキの胸が軋んだ。
「マーヴィ。あんたはどうして今、こんな話を持ち出したの? 自分の罪をあがなうため?」
 アモルの言葉に、マーヴィは笑った。
「そうだね。君の言う通り、僕は許されたいのかもしれない。でも違うんだ、アモル。僕はこの程度のことで償える罪を犯したとは思っていないよ。
 僕に残された時間は少ない。僕がその間にすべきことは、出来るだけ多くの真実を伝えることだ。…メレキ、おいで」
 突然の指名に、メレキは目を瞬く。メレキがベッドの側に近づくと、マーヴィは左手を静かにメレキの手に重ねた。 もう、今朝のようにメレキを撫でる力は残されていないのだろう。マーヴィの手は熱を持ち、石のように強張っている。
「イェシルが死んで、僕もこんな状態になってしまって。君は、怯えているね」
 メレキは自分の手が小さく震えていることに気が付いた。誤魔化すように、両手でマーヴィの手を握ってみる。 それでも消えない恐怖が、メレキの中に確かにあった。
「マーヴィ……どうして? どうしてあなたやイェシルがこんなに哀しい目に遭わなきゃいけないの?」
「レントを知っているだろう」
「え?」
 いきなり突き出された名前に、言葉を失う。知らないはずがあろうか。レント・アクシャムは祖国の王である。
「彼は今、シャングリ・ラにいるんだ。そして、ここを破壊することを願っている。 だからその計画に邪魔になるであろう、魔女である僕を狙った。イェシルを殺したのは、直接僕に手を下さずに済ませようとしたからだろうね。
 結局レントの思惑は叶えられて、僕は今、死に瀕している。彼の願いはもう間もなく実現するよ。レントが君を手に入れた瞬間に」
「わた、し……?」
 メレキは固まった。意味が分からない。何もかもが繋がらない。
「マーヴィ」
 警戒し、けれども戸惑いを隠しきれていない眼差しで、エウリがマーヴィを捉える。
 マーヴィはもう、笑っていない。
「さぁ。お話を始めようか」



目次に戻る