8.真相の扉を開くとき


「アクシャムには、もともと二人の王子がいたんだ。二人とも強い魔女で、特に兄の方は抜きん出ていた。兄に対する周囲の人の期待は、とても大きかった」
 マーヴィは不安を隠せずにいるメレキを見つめ、淡々と話を始めた。

 ヴェルム暦1331年。アクシャムの二人の王子がそれぞれ十二歳と十一歳になったその年に、サバハとアクシャムの国境付近で紛争が起こった。
 その地域は元来小さな争いが絶えない場所だったのだが、その時の紛争は規模が大きかった。 アクシャムの魔女たちがサバハに攻め入り、街を一つ壊滅させたのである。
 原因は、貿易だった。
 乾燥した気候のサバハでは、あまり農作物が育たない。 それ故にサバハは長年アクシャムから多くの農作物を買っていたのだが、いつの間にかそれが極端な輸入超過になってしまい、財政が苦しくなったのだ。
 しかし、アクシャムはその問題を解決しようとはしなかった。それどころかサバハからの輸入品に不当な高い関税をかけ、状況の悪化を促した。
 直系の強力な魔女が多く生活するアクシャムには、ハーフ以下の弱い魔女が多いサバハを従えようとする風潮があったからだ。
 アクシャムの態度に怒りを覚えたサバハの貿易商人たちは、アクシャムの商人に抵抗するようになった。 それを力で押さえつけようとしたアクシャムの魔女たちが、今回、サバハの商業都市を壊滅に追いやったのである。
 この知らせは、すぐさまアクシャムの王都に伝えられた。しかし、アクシャムの王はサバハに賠償するどころか、これを戦争を始める良い契機だと捉えた。
 アクシャムの王にもやはり、国力の弱いサバハを国に取り入れてしまおうという考えがあったからである。

「けれども、そう考える王に反発する者がいた。この話を立ち聞きしてしまった、アクシャムの王子の兄の方だ」

 王子は幼いながらも、父である王に意見した。戦争を起こして死者を出してまで、サバハを取り入れる理由はないと。 所詮は十二歳の子供の言うことだと、王は一度は聞き流したが、そうはいかなかった。
 王子はまだ使いこなせない自分の魔力を暴走させて、王に反発したのである。
 王子の持つ『破壊』の魔力によって城内で死者が出ると、王は自分の身の危険を感じずにはいられなかった。 王の魔力よりも、王子の魔力の方が遥かに強かったからである。説き伏せることも出来ず、王は仕方なしに王子を処刑することにした。 しかし、下手に殺そうとすれば何をされるか分からない。 最終的に王は、毒物で可能な限り王子を弱らせた挙げ句、辺境の地に捨てた。 そのまま自然死する確率が高く、仮に生き残ったとしても簡単に城まで帰ることは出来ないと見込んだからだった。
 王子の籍は抹消され、その存在はなかったものとなった。

「結局その時は、サバハとアクシャムの関係はそれほど険悪にならずに済んだ。 いなくなった兄の代わりに、周囲の期待はそれまで無視されていた弟のレントに向けられるようになった」

 それから三年後の、ヴェルム暦1334年。アクシャムの王が突然死亡した。 死因は分からなかったが、家臣に扮したサバハの刺客が食事に毒を盛ったという噂が広まり、再びアクシャムとサバハの関係の悪化が顕著になった。 十四歳の幼いレントが即位したが、王の死によってアクシャムは混乱し、王妃までもが王の後を追って自殺した。

「そこを、サバハが狙った。不安定なアクシャムに、サバハが攻め入ったんだ。これが、俗に『魔女戦争』と呼ばれる今回の戦争の始まりだ」 

 戦況は、サバハの方が圧倒的に有利だった。
 アクシャムに強力な魔力を持つ魔女が多いのは事実だが、険しい山に囲まれたアクシャムには、ほとんど戦争の歴史がない。 それに対して開けた土地を持つサバハの方は、昔から周辺民族の侵入が多く、戦闘の経験が豊富だったのだ。 戦場に立ったことのないアクシャムの直系の魔女たちよりは、死闘を繰り返してきたハーフ以下のサバハの魔女たちの能力の方が上だった。
 荒れたアクシャムには行き場をなくした難民が増え、奴隷商人が蔓延はびこるようになった。 たった一年で、治安は著しく悪化した。

「メレキみたいな普通の国民に戦況は伝わらなかったかもしれないけれど、一部の国民は、もうアクシャムに勝ち目はないと読んでいた。 でも、レントは戦争をやめようとしなかったんだ。
 それを放っておけないと、陰で動き出した者がいた。王都から離れた土地で生き延びていた、王の兄だ。 …もう、名前を伏せることもないよね」
 マーヴィの瞳が、不意に険しくなる。
「メレキがよく知っている、ラルゴだよ」
 マーヴィの言葉は、電撃のようにメレキの体を駆け巡った。瞬きも、呼吸も忘れる。口を突いて出る言葉もない。
「ラルゴと、彼を養っていた老人のヴェルトは共に魔女だ」
 口調を変えずに、マーヴィは話を続けた。

 二人は戦争によって傷つけられた国民の存在に気が付いていた。そこで二人が考えついたのが、彼らを救うための理想郷――シャングリ・ラの創造である。
 ラルゴが持っていたのは、『創造』と『破壊』の魔力。 ヴェルトが持っていたのは、『癒傷ゆしょう』の魔力。 二人の魔力があれば、傷ついた人々がその傷を癒すための場所を完成させることが出来る。

「その頃レントに、ラルゴが生きているという情報が伝えられた。レントはすぐにラルゴのいる街に向かった。
 彼はラルゴを恨んでいたんだ。本当はラルゴが王になるはずだったのに、何の覚悟も出来ていない自分が突然王にさせられて、頭の痛い問題は全部自分にだけ回ってきて。 レントには、辺境の地に暮らすラルゴが悠々と羽根を伸ばしているように見えたのかもしれない」

 ラルゴの留守を狙い、レントはヴェルトを殺した。
 何故、ヴェルトを殺す必要があったのかは分からない。また、恨んでいるはずのラルゴに手を出さなかった理由も分からない。
 とにかく、レントはラルゴからヴェルトを奪い、王都に戻ると今までのように戦争を続けたのである。

「レントはヴェルトを殺すときに、シャングリ・ラを創造する計画の存在を知った。 その時から彼は、シャングリ・ラの破壊を望むようになったんだ。どうしてなのか、それは本人に訊いてみないと分からないけれど」

 ヴェルトを失ったラルゴに、シャングリ・ラを完成させる術はなかった。 しかし捨て子が増え、奴隷商人が増え、治安がますます悪化して人々が傷つけられる状況の中で、ラルゴはついにシャングリ・ラを創造することを決心したのである。
 メレキを拾ったのもその頃だ。

「シャングリ・ラは生まれたけれど、ヴェルトの『癒傷』の魔力なしでは完全なものにすることは出来なかった。それは、今も同じ。――ここはまだ、未完成だ」 

 そして、ヴェルム暦1339年。一時はアクシャムが優勢になったこともあったが、マーヴィの魔力の暴走によって『魔女戦争』は終わりを告げ、 生々しい爪痕だけが各地に残された。

「僕がアクシャムの兵士を消して一月経ったとき、サバハの王が病死した。その混乱の中で、僕とイェシルはシャングリ・ラに来たんだ。 それから一月も経たないうちに、レントもこっちに来た。 彼は魔女の魔力を感じることが出来るから、すぐにここがラルゴの創った理想郷だと――破壊すべき場所だと、知った」
 そこまで言い終えた後で、マーヴィは疲れたように息を吐いた。顔色が悪い。 今のマーヴィには、長い話をするだけでも重労働なのだろう。しかし、メレキは問わずにはいられなかった。
「どうしてあなたが、そんなことを知っているの…?」
「……僕は、ラルゴに会っているから」
 思いがけない答えに、メレキは目を見開いた。
「ラルゴに…!?」
「そう。僕らが来てから一年後――つまり、メレキがここに来る一年前に、ラルゴ自身もここに身を置くようになった。 ラルゴにもレントみたいに魔女の魔力を感じることが出来るから、僕が持つ変わった形の魔力に興味を持って、向こうから接触してきたんだ。 今話したのは、全部彼から聞いたことさ。僕らは、週に一度会っていた」
 メレキは息を呑む。
 ラルゴが、シャングリ・ラにいる。
 心臓が異常に高鳴り、呼吸が乱れた。
「おかしい…。そんなこと、あるはずない…!」
 メレキは両手で胸を押さえ、何度も大きく首を横に振る。
「メレキ?」 
「変よ、そんなの…。だって、ラルゴがここにいるなら、どうして…!」
 涙が溢れそうになる。
「どうしてラルゴは私の前に出てきてくれないの!?」
「メレキ…」
 アモルが後ろから、そっとメレキの震える肩を抱いた。
「アモル、やめて!」
 メレキはその手を振りきり、叫ぶ。今はアモルの優しさを持ってしても、気持ちを落ち着かせることは出来なかった。
 アモルは何も言わない。ただ顔を俯かせ、元の場所に戻って寂しげにメレキの背中を見つめている。
 感情が高ぶったままのメレキを、マーヴィは静かな眼差しで見上げた。
「レントの狙いは、ラルゴを殺すことだ。創造主を失えば、必然的にここは崩壊する。 だからラルゴは、安易に人前に出ることが出来ない。レントに見つかってしまうかもしれないからね」
「そんなのおかしい! だって、ラルゴは魔力を感じることが出来るんでしょ!? それならレントのいる場所だって――」
「分からないんだよ。ラルゴは、レントの居場所を特定できない。レントは『拡散』の魔力を持っている。 その力で、レントはシャングリ・ラ全体に魔力を広げているんだ」
 メレキは言葉を失う。胸の前で血の気がなくなるほどに強く、重ねた両手を握った。
「幸運なのは、ここを創ったラルゴの魔力もまた、シャングリ・ラ全体に広がっているということだ。 レントもラルゴの居場所を特定することが出来ない。だからラルゴはここで、陰に身を潜めるように生活しているよ。
 僕は、下手に動けないラルゴの代わりにレントを捜してる。 ただ、見つけたところで僕が説得できるとは思えないし、そもそも顔を知らないから、どうにもならないと言えばそれまでなんだけど」 
 メレキもレントという王の名前こそ知っていたが、その顔を見たことはなかった。アクシャムでは、王が人前に出ないのが常である。
「それからね、メレキ。僕はラルゴから、君を守るようにとも頼まれているんだ」
 はっとして、メレキはマーヴィの瞳を見返した。
「さっき言ったよね? レントの願いは、君を手に入れた瞬間に叶えられると。それは、ラルゴにとって君の存在が大きなものだからなんだ。
 つまりレントは、君に手を出せば、ラルゴも隠れてはいられないだろうって考えてるみたいなんだ。 イェシルが殺されて、僕がこんな状態になって、障害がなくなった今――彼が次に狙うのは間違いなく君だ」
 メレキは愕然としてその場に凍り付いた。
 胸を満たすのは恐怖ではなく、何処までも続いていく何もない空間――簡単に崩壊してしまうであろう、空虚な広がりだ。
「そんなことが起こってたのか……。でも、メレキは怖がることねぇよ。 ここには俺もいるし、アモルやラーレもいる。宿や『ロスト・シープ』の常連だって、このことを知ったらメレキを守ってくれるはずだ」 
 エウリの言葉に、ラーレとアモルも深く頷いた。
「メレキのお姉さん、大丈夫だよ。みんな助けてくれるよ。ここの人はみんな、すごく優しいし」
「あたしも、出来ることがあるなら何でも協力するよ」
 温かい言葉のはずなのに、今はそれが吹き抜ける風の音のようにどうでもいいものに聞こえる。 メレキは口を真一文字に結んだまま、何も言うことが出来ない。
 マーヴィがちらりとエウリに目配せした。エウリは黙って頷き、部屋を後にする。アモルもその後に続き、躊躇って留まりかけたラーレも、結局は部屋を出て行った。
 息苦しいほどの静寂の中に、メレキとマーヴィだけが残される。
「メレキ、ごめんね…。本当は、少しずつ話してあげなきゃいけないことだったのに」
 空っぽの胸に、マーヴィの言葉が深く沈んでくる。
「謝らないで……」
 メレキは力無く、その場に崩れた。

            ***

「ゴメン、ちょっと一人にしてくれないか?」
 メレキとマーヴィを残して部屋を出ると、エウリはそう言ってカウンター席に腰を下ろした。
「分かった。必要だったら、お酒でも飲んで気分紛らわしな。…ラーレ、二階行こ」
 アモルはラーレの腕を引き、エウリをおいて自室に向かう。
 エウリが精神的に参っていることには、アモルも薄々気が付いていた。
 アモルは、エウリがイェシルに少なからず惹かれていたことを知っている。 また、エウリにとってマーヴィが誰よりも気が置けない大切な友人であることを知っている。 いくら人に弱みを見せないエウリだって、この状況下で平気でいられるはずがないのだ。それも、マーヴィの話を聞いた後では余計に。
「救いなんてないんだね。結局ここでも、傷つくだけなんだ」
 ラーレを部屋に入れてドアを閉めると、アモルは愚痴るように呟いた。
「そうだね」
 ラーレの素っ気ない相槌あいづちに、アモルは驚く。 いつもなら、『そんなことないよ』なんて、笑って返してくれるのに。
「どうしたの? ラーレ。あんたらしくないよ」
「本当は怒ってるんでしょ?」
「怒る?」
「だってわたし、みんなの過去を覗いていたんだよ?」
「…その話か」
 アモルはラーレから視線を逸らし、顔を俯かせた。
「わたし、本当にいけないことしたんだって思ってる。みんなが苦しんでることに中途半端に首を突っ込むなんて、わたし、本当に――」
「ありがとう、ラーレ」
 アモルはただ一言でラーレを制した。ラーレが目を瞬く。
「『ありがとう』?」
「ああ。だって、あたしたちの傷を癒そうとしてくれたんでしょ? だったら」
「嘘は言わないで」
 ラーレはアモルを真っ直ぐに見据え、苦しげに言った。心の中まで侵入してくるような、ラーレの視線。
「怒ってるんでしょ?」
 もう、逃げられなかった。
「……怒ってるよ。ラーレのこと、嫌いになりかけた」
 嘆息し、吐き捨てるようにアモルは白状する。
 シャマイムと過ごした時間は、口では説明しきれないほどに充実していた。 自分だけが胸に秘めることを許された、かけがえのない思い出 ――それが軽く覗かれるというのは、アモルにとってがたいことだった。
「ラーレ。あんたは、何を見たの?」
「シャマイムさんが、アモルのお姉さんに思いを伝えたところ。……それから、焼け爛れて死んでしまったところ」
 アモルは瞳を伏せた。
 話すことが出来ないシャマイムが、手話で『婚約しよう』と伝えてくれた日。あの時の喜びは、今でも鮮明に思い出せる。
 結婚式の一ヶ月前、突然シャマイムを失った日。あの時の哀しみは、今でもアモルの胸を引き裂こうとする。
「そう。あんたは、あの無惨なシャマイムの姿を見たんだね」
「うん…」
 辛うじて人の形をしているだけの、物言わぬ死体と化したシャマイム。あまりに残酷すぎて、あの時は涙も出なかった。
「だったら、ラーレ。やっぱり、あんたには『ありがとう』だ」
「え…?」
「見てて気持ちのいいものではなかったでしょ? 婚約者のあたしだって、吐き気がした。 …それでも、あんたは見てくれたんだ。あたしの受けた傷の痛みを、分かろうとしてくれたんだ」
 ラーレが見てきた人々の過去が、一体どれだけの数になるのか見当も付かない。 哀しい現実をいくつも目の当たりにして、それでもラーレは笑みを絶やさず、人々に希望を与えようとしてくれたのだ。
「ありがとう、ラーレ。本当に」
「お礼を言われる理由なんかないよ…!」
 ラーレの瞳がうるみ始める。 涙が零れ落ちる前に目を擦り、ラーレはアモルを見つめ直した。
「ねぇ、わたしの過去を話させて。お姉さんの過去を覗き見した償いに」
「そんなの、聞かないよ」
 アモルが冷たく言い放つと、ラーレは肩を落として俯く。アモルは溜め息混じりに、一言付け加えた。
「償いのためなら聞かない。…でも、あたしの哀しみを共感してくれたお礼としてぜひ聞きたい」
 困惑するラーレに、アモルは笑いかける。
「話しな、ラーレ」
「……うん!」
 大きく頷き、ラーレは過去を懐かしむようにゆっくりと話し始めた。
「わたしがシャングリ・ラに来たのは、ヴェルム暦1336年。十三歳になったときだったの。戦争が始まって、二年経った頃」
「1336年か…。あたしより二年も前からここにいるんだね」
 もしもシャングリ・ラが現実世界と同じ時間の概念を持っていれば、今年はヴェルム暦1341年。つまり、ラーレは現実世界では十八歳になっているはずだ。
「それじゃ、本当はメレキより年上なんだ」
「うん。…生きていればね」
 ラーレは言葉を濁した。
「どういうことなの?」
「徴兵令で、わたしは兵士になったんだ」
 アモルは、アクシャムの徴兵令を思い出す。アクシャムの徴兵令は、出された後で三回改正されていた。
 最初に出されたものは、十三歳以上の直系の魔女が対象。二度目に出されたものは、十三歳以上のハーフの魔女が対象。 三度目に出されたものは、十三歳以上のクォーターの魔女の男子が対象。最後に出されたものは、普通の人間の十三歳以上の男子が対象だった。 障害を持つシャマイムが兵士になれないことを気に病んでいたため、調べたことがあったのだ。
「あんたは直系の魔女だったね。だけど、あんたが持ってるのは『希望』と『絶望』の魔力でしょ? そんなの、戦場で必要になるの?」
「関係ないんだよ。直系の魔女だったら、どんな魔力を持っていたって関係ない。それがアクシャムの徴兵令なの。 大した訓練もないままに、わたしは戦場に立たされた」
 なんて理不尽なのだろう。魔女だという理由だけで、突然血腥ちなまぐさい戦場に送られるなんて。
 アモルはラーレの表情がかげったのに気が付く。
「わたしの魔力は戦闘向きじゃないけど、敵を惑わすのにはちょうど良かったんだ。判断が鈍ったサバハの兵士を、他の魔女が殺していくの。 最初は怖くて、でも、すぐに慣れてきて。そのうち当たり前のように人の死体を見られるようになったんだ。
 だからわたし、シャマイムさんの死体を見たときも、お姉さんほどのショックはなかった。もっと浅ましい死体を見たことがあるから」
 それでラーレは、他人の悲惨な過去を見ても平気でいられたのか。アモルは息苦しさを覚える。きっと怖かっただろう。人の死に慣れていく、自分の心が。
「いっぱい人を殺して、わたしたちはサバハの王都を目指した。 だけど、やっぱりサバハの兵士の方がまさってて、わたしたちは王都に着く前に捕まったんだ。 サバハはね、捕まえた敵をその場で殺したりしないの。どうするか、聞いたことある? …サバハの城の前で、火刑に処すんだよ」
 後半、ラーレの声が張りを失った。アモルは絶句して立ち竦む。 哀しみと悔しさが混じったやり切れない感情が、じわじわとり上がってきた。
「わたしがここに来たのは、火刑に処される前夜、牢獄に閉じ込められているとき。だからね、わたしは元の時代に帰るとすぐに殺されるんだ。未来はないの。…だから」
 ラーレがアモルの側に寄り、すがるように抱きついてくる。
「わたしは、レントにシャングリ・ラを壊して欲しくない…!」
「あたしもだよ、ラーレ。あたしだって、何にも残ってない世界になんか帰りたくない」
 アモルは、はっきりと宣言する。
 半分は、ラーレを慰めるように。
 半分は、自分に言い聞かせるように。
「絶対にレントを止めよう、ラーレ」
 それは、メレキやエウリを救うことにも繋がるはずだから。
 アモルは信じて疑わなかった。

            ***

 身を起こすことも出来ないマーヴィの胸に縋って、泣いて、どれだけの時間が経ったのだろう。外は少しずつ暗くなり始めていた。 朝食をいつもの半分しか摂らず、昼食も抜いていたが、不思議と空腹感はない。メレキの中には、行き場のない負の感情が溢れるばかりだ。
「魔女なのかなって、思ったことはあるの」
 顔を上げて呟くと、マーヴィは黙ったままメレキの方を向いた。
「ラルゴ、怪我をしても絶対に痛がったりしなかったから。まるで、痛覚がないみたいに」
「そうだね。彼にとって、自分の痛覚を破壊してしまうことは簡単だっただろうね…」
 マーヴィの声が、さっきよりも小さい。確実に彼が死に向かっていることが、ぞっとするほどよく分かる。
 メレキは瞳を閉じて涙を流しきり、訊ねた。
「マーヴィは知ってるの? ラルゴは、私の時代ではもう死んでしまっているんだって」
「うん。ラルゴの時間は、現実世界ではまだ死ぬ前で止まってるけど、彼はもう自分の死を確信しているよ。 メレキのイヤリング、本来はヴェルトの形見なんでしょ? ラルゴ、言ってたよ。自分がこのイヤリングを外すのは、死ぬときだけって決めてたって。 だから、それを今、君が身に付けてるってことは――」
 呼吸がうまく出来ないのか、言い終える前にマーヴィは苦しそうに咳き込んだ。あまり喋らせない方がいいのだろうか。 黙っていると、マーヴィはゆっくりと息を整え、小さく笑ってメレキを見上げた。
「気を遣わなくていいんだよ、メレキ。もっと訊きたいことがあるって顔してる」
 マーヴィが真剣にメレキの話を聞いたり、心配してくれたりする理由を知った今、ラルゴとよく似たマーヴィの優しさは何処までも温かい。
「マーヴィ…。ラルゴはずっと奴隷商人狩りをしていたけど、ラルゴが自分で引き取った子供って私だけなんだ。 あとはみんな、施設に任せていたの。ラルゴにとって、どうして私は特別だったのかな。死ぬ間際にも、彼は私を守ってくれた」
 ラルゴが魔女だと分かった今、奴隷商人に襲われそうになったメレキを助けたのはラルゴの魔力だったのだろうと想像がつく。 しかし、自分が死にそうな状況に陥ってまで、メレキを助けようとした理由とは何だろう。
 恋人でもない。家族でもない。それなのに、どうして。
「どうして今、ラルゴは私なんかの存在に動かされているのかな。どうしてラルゴは、私を大切に思ってくれるのかな」
 単純に考えれば、嬉しい。
 でも、見ず知らずの子供の中でメレキだけを特別に養ったことに何も理由がないはずがない。
 メレキは、真っ暗な闇の中を手探りで歩くような不安を感じ始めていた。
 ――何か、裏があるのではないか。
 それは、メレキがラルゴに対して初めて抱いた疑いの念だった。
 今までは気にもかけなかったのに、ラルゴがずっとメレキに隠し事をしていたことを、今は知ってしまったから。
「…その質問には答えられない。答えを知っているのは、きっとラルゴだけだから」
 メレキはぎゅっと奥歯を噛む。欠落した真実を知る方法はなく、もどかしくて仕方ない。
「私、ラルゴに会いたい」
 叶わぬ夢と分かっていながらも、メレキは願わずにいられなかった。

            ***

 部屋を出ると、カウンターにアモルとラーレがいた。もう夕食の時間になっていたようだ。
「アモル、マーヴィの包帯を替えてあげて。シーツにまで血が滲み始めてる」
「うん、分かった」
 アモルはメレキの目を見て心配そうな顔をしたが、余計なことは何も言わない。すぐに包帯を手にして、マーヴィの部屋に向かう。 メレキも自室に向かおうと、階段を登りかけた。
「待って、メレキのお姉さん」
 ラーレの声に、足を止めて振り返る。
「何?」
「ご飯、食べないの? アモルのお姉さん、心配してた。お昼も食べてないんでしょ?」
 メレキはカウンター席に置かれた食事に目をやった。アモルには悪いが、食欲は沸いてこない。 やはり部屋に行こうと視線を戻しかけたとき、メレキはカウンター席の一番端のテーブルに、空になった酒やビールの瓶とジョッキが置いてあるのを見つけた。
「エウリは?」
「え? 多分、外だけど」
「夕食、要らない。アモルに言っておいて」
「えっ! 待ってよ、お姉さん!」
 メレキは進行方向を変え、ラーレを無視して宿の外に出た。

            *** 

 薄暗い空の下に、エウリは佇んでいた。
「エウリ」
 メレキの呼びかけに、エウリはびくりと肩を震わせる。ゆっくりと振り返ったエウリは、メレキを見ると溜め息を吐いた。
「泣いてた?」
 メレキとエウリの声が、ぴったりと重なる。メレキはハッとして思わず俯き、エウリはばつが悪そうに笑った。
「俺、目赤い?」
「赤くない。でも、目の下が濡れてる」
「そっか。メレキの方は真っ赤だぜ、目。それにしても大変なことになってたんだな。ここも」
「エウリはどうして泣いてたの?」
「……後悔、してた」
 エウリはメレキに背を向け、夕焼けと闇が混ざった空を仰ぐ。
「俺も、メレキと同じアクシャムの人間だったんだ。だから、サバハの人間のこと、大ッ嫌いでさ。イェシルとマーヴィのことも、心の奥底でずっと憎んでたんだ。 だから俺、イェシルが死んだときも、哀しいって思うより何処か安心してた」
 メレキは黙って、エウリの話の続きを聞いた。
「だけどさ、マーヴィまであんな状態になっちまったら、なんだか辛くて。死んで欲しくないって、本気でそう思った。
 俺はイェシルが死んで安心したんじゃない。安心しようとしてたんだ。俺、結局二人のこと、憎み切れてなかったんだって気が付いてさ。 イェシルが俺に冷たく接する理由も、ずっと分かってたのに気付かないフリしてて。あいつのこと、憎むようにしてて。 そのこと、今、後悔してた。……こういうこと言うの、俺らしくないかな?」 
 エウリは誤魔化すように笑って、メレキを振り返る。メレキはかぶりを振った。
「そんなことないわ」
「そっか。ありがとな」
 エウリは安心したように笑うと、メレキに背を向けて歩き出そうとする。
「何処に行くの?」
「帰る。せっかくアモルが夕食の用意してくれたのに、悪いな」
「…分かった。言っておく」
「それじゃ」
 エウリは歩き出し――かけたが、ふと足を止めてメレキを振り返った。
「メレキ、あんたも来るか? その様子じゃ、中に戻りたくないんだろ」
 メレキは瞳を伏せる。エウリが言うことは正しかった。エウリが行ってしまった後、メレキはどうしようかと考えていたのだ。
 マーヴィは心配だが、彼の側にいても何も出来ないから。
 一人にはなりたくないが、アモルやラーレに余計な心配をかけたくないから。
「一緒に来るか?」
 エウリは質問を繰り返す。
「…うん」
 メレキは静かに頷き、エウリの隣に並んだ。
 エウリといれば、少し気が楽になるような気がした。 




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