王女様とドラゴン


 城の中にあるアリルの部屋の窓から、白い月の光が差している。今日は満月。天気が良く、星も美しい。アリルは、うっとりと窓の外の景色を眺めた。
「これで、隣に素敵な殿方がいたらなぁ……」
「王女様、ご心配はなさらず。姫様の前には、近いうちに勇敢な王子様が現れるのですから」 
 侍女が、床に落ちた絵本を目で指し示す。
「今夜はもうお休みになられてくださいませ」
 侍女は深々と一礼すると、静かに部屋を後にした。その後で、アリルは深い溜め息を吐く。
 この星の下には、恋人に寄り添うアリルくらいの歳の少女が何人もいるのだろう。町に生まれていれば、自分で見つけた人を好きになって結婚できたかも知れないのに。アリルは足下の絵本を見つめ、ますます深い溜め息を吐いた。
 絵本の表紙には、不気味なドラゴンが描かれている。それから、一振りの剣を手にドラゴンに立ち向かう少年の後ろ姿も。この少年こそ、これからアリルが出会うはずの王子様であった。
 このあたりの国には、年頃の王女がドラゴンに攫われるという言い伝えがある。そして、攫われた王女が近くの国の王子に助けられてめでたく結ばれるという昔話も。はっきり言って、馬鹿馬鹿しくて古くさい伝承だ。しかし、アリルはその伝承を守るためにここで夜な夜なドラゴンの登場を待っていなければならないのである。
 どうして伝承を守らなければならないのか、侍女に聞いてみたことがある。ドラゴンに攫われることが危険であるのは当然なのに、何故、わざわざこちらから待たなければならないのか。侍女の答えはたった一言だった。
「だって、昔からそういうことになっているのですもの」
 それは到底アリルに納得できる答えではなかった。しかし、だからといって自分で道が拓けるわけでもない。町の人々は、王女といえば大きな権力を持っているものと考えるかも知れないが、そんなことはないのだ。両親には悪いが、アリルは自分が王と女王によって囚われているとしか思えなかった。
 アリルは絵本を蹴飛ばして、再び夜空に目を移した。この星の下で、大好きな人と自由に過ごせたらどんなに幸せだろう。できれば、格好いい素敵な人がいいな――決して訪れない幸福を思うと、胸の中がずっしり重くなった。少なくとも、近隣の王子たちでアリル好みの顔つきの者は一人としていない。彼らと行動を共にする騎士や教育係の方が顔が良いという、目を背けたくなるような事実があるのだ。
 自分はこんな雁字搦めのつまらない一生を送らなければならないのか――自分の暗い未来に胸が塞がった、その時だった。晴れていたはずの夜空に突如黒い影が現れ、月明かりを消した。
「え…?」
 驚いて目を瞬くと、次の瞬間には影が倍の大きさになっている。息を呑んでだんだんと巨大化する影を凝視すると、時間と共にその形が明らかになっていった。
 アリルが小さい頃から絵本で呆れるほど見た、ドラゴンのシルエットだ。
「王女様! 今、ドラゴンが城に向かって!」
 非常事態に気が付いた先ほどの侍女が部屋に飛び込んでくる頃には、アリルが窓から身を乗り出せば触れてしまえるくらいに、ドラゴンが接近していた。
「き、きゅ、救援を呼んで参りますッ!」
 頼りにならない侍女が、ばたばたと駆けて行ってしまう。アリルは呆然として立ち尽くしていたが、ドラゴンを眺め回していると次第に落ち着いてきた。こうなることが昔から分かっていた、というのもある。しかし、何よりアリルが安心した要因は、ドラゴンの大きさだ。絵本のドラゴンは窓よりも大きい顔を持ち、アリルの顔の二倍はある目を持っているが、今ここにいるドラゴンは絵本の半分か、それよりも小さいくらいだった。
「私を攫いに来たの?」
 言葉が通じるか少し不安だったが、ドラゴンは低い声で唸るように答えた。
『そうだ。分かっていたんだろう? さっさと背中に乗ってくれ。羽ばたいたまま同じ場所に留まるには、結構体力を使う。これからまた長時間飛ばなければならないのだから、体力を温存させてくれ』
 渋々ここに来ました、という気持ちが滲み出たドラゴンの発言にアリルは驚いたが、同時に親近感を覚えた。自分と同じだ。
『早くしてくれ。そうしないと、口にくわえて運んでやるぞ』
「それは嫌!」
 アリルは慌てて窓から身を乗り出し、ドラゴンの頭から背中に乗る。自分から進んで攫われる王女様なんて、他にいるだろうか。何か間違っている気がする。しかし、こうしなければならないのだ。鱗に覆われ、ところどころに棘のようなものがある背中は決して乗り心地はよくなかったが、高い所は気持ちよかった。
『人目につかないように急いで寝床に帰るから、ちゃんと捕まっていろ。落ちて死んだりしたら、伝承を守れないからな。お前は俺の寝床で、王子の登場を待っていなければならないことになっているんだ』
「ええ、分かっているわ」
 アリルが頷くのと同時に、ドラゴンが大きく羽ばたいて上昇し始める。思わず振り落とされそうになったが、身をかがめ、張り付くようにしてドラゴンの背中にしがみついた。
 上昇をやめ、ドラゴンが寝床に向かって進み始めたとき、アリルは自室の窓を振り返った。
 そこに人の気配はなく、誰も救援には来なかったようだった。

                 ***

『着いたぞ』
 ドラゴンの背中から降りたのは、出発からかなり時間が経ってからだった。ずっと同じ姿勢でいた所為で、体中が痛い。
『その洞窟が俺の寝床だ。口に合うか分からないが、食糧がある。勝手に食べて、休んでいればいい。少し歩けば、川もある。水はそこで飲め』
 アリルは月明かりだけを頼りに、自分が降ろされた場所を観察する。岩山だ。足場は悪く、生えている植物はわずかしかない。地上と比べてひんやりと冷たい空気が、ここが高い場所であることを示している。アリルは次に、ドラゴンが寝床だといった洞窟に目をやった。
「随分と広いのね。少し、寒そう」
 小さめの山をそのまま洞窟にしてしまったと言っても過言ではないくらい、寝床は広かった。今アリルを連れてきたドラゴンくらいの大きさならば、十匹程度は入れそうだ。
『確かに、人間には少し厳しい寒さかも知れないな。陽が昇ったら、大きな植物の葉でも集めてきてやろう。それで暖をとれるはずだ』
「あら、優しいのね」
 アリルはドラゴンに微笑みかける。
『伝承を守るためだ。王子が来る前にお前に死なれては、祖父や父を裏切ることになる』
  表情の見えない顔、感情の読めない声で、ドラゴンは淡々と答えた。
「あなたにも家族がいるの? この寝床の広さじゃ、もしかしたら一緒に住んでいるのかしら」
 ドラゴンの一家団欒の様子なんて、滅多に見られるものではない。好奇心からアリルが訊ねると、ドラゴンは赤い瞳を伏せた。
『一緒に住んでいたのは昔の話だ。もう、祖父と父は死んだ。それに妻と子供は、別の山に住んでいる』
「え?」
 アリルは固まった。訊いてはいけないことを訊いてしまったようだ。二の句が継げないでいると、ドラゴンが溜め息混じりに言った。
『伝承のためだった。仕方ない』
「どういうこと…?」
『分からないか? 成長した雄のドラゴンは、年頃の王女を攫って王子に殺されなければならないだろう。それで、父と祖父は死んだ。妻と子供は、お前を助けに来た王子に危害を加えられないように、別の場所に移住させた』
 アリルは再び言葉を失った。自分はこうしてドラゴンに攫われなければいけなかったが、必ず王子に助けてもらえる。そういうことになっている。だが一方で、ドラゴンはこれから必ず殺される。――そういうことになっているのだ。
「伝承、って何なの……?」
 残酷な事実を突きつけられ、思わず声が震える。絵本の世界を演じている自分が、気持ち悪かった。
「どうして私たちは、こんな馬鹿馬鹿しい伝承を守らなければならないの?」
『そうすれば、皆が安心するのだろう。これ以上悪くはならないからな』
 少しずつ薄くなり始めた夜闇を見上げて、ドラゴンが言った。
『ドラゴンは王女を攫う。しかし、それ以上人間に危害を加えることはない。攫われた王女は、汚い巣穴で助けを待たねばならない。しかし、その先には王子との幸せな結婚が待っている。王子はたった一人でドラゴンと戦わねばならない。しかし、そうすることで簡単には得られないであろう異国の王女を妻とすることができる』
「私は幸せだなんて思わないわ! 好きでもない王子と結婚するなんて!」
『だがお前は少なくとも、好きでもない王子と政略結婚させられて、政治のゴタゴタに巻き込まれる危険はないわけだ。これ以上悪くはならない』
 説明文を棒読みするように、ドラゴンは語る。
「だけど、あなたは幸せになれないじゃない。家族ともバラバラになって、最後には必ず死ぬのよ?」
『人間が創った物語なのだから、仕方ないだろう。最初にドラゴンが王子に負けた瞬間に、俺たちの運命は決まったんだ。誰かの幸福には、誰かの犠牲が必要だ』
 アリルはドラゴンを見上げる。絵本の中よりも、ずっと小さいドラゴン。ドラゴンは何百年も生きるというが、この大きさから考えて、このドラゴンはまださほど長くは生きていないのだろう。だが、王子がやってくる一週間か二週間後にはもう死ななければならないのだ。このドラゴンの子供も、大きくなったら同じ運命を辿らなければならないのだ。
 理不尽だった。吐き気がするくらい、理不尽だった。
『もう休め。疲れているだろう。しっかり休んで、助けに来た王子には最高の笑顔を向けてやれ』
 この話は終わりだと言うように、ドラゴンがアリルから目を背ける。しかし、アリルは動かなかった。
「あなたは家族と一緒にいたくないの?」
『いたくないはずがないだろう。だが、祖父も父も、伝承を守り続けてきたんだ。もし俺が王子に退治されなかったら、お前はどうなる。お前を心配するお前の家族は、どんな行動に出る。王女を攫ったドラゴンが生きていると知ったら、町人も安心して眠れないだろう。安心を得るために、他のドラゴンたちが狩られる可能性がある。でも、伝承の通りにすればこれ以上悪くはならないんだ』
「でも、これ以上良くなることもないわ! 私たちが守ろうとしているのは、たった一冊の絵本にまとまってしまうくだらない伝承よ。あなたは悔しくないの? 自分とその家族の一生が、小さな絵本一冊で決まってしまうのよ。絵本一冊よりも、あなたの命は軽いと言われているのよ。悔しくないの!?」
 ドラゴンは考えるように黙り込む。珍しいものを見るようにアリルを眺めた後で、ドラゴンは一言だけ言った。
『お前は、面白いことを言う』
「私だって、絵本の通りの人生を歩むなんて耐えられないの。せっかく生まれてきたのに、自分は絵本の中の人形にすぎないなんて認めるのは悔しいの。生きた人間だってことを、否定されてるみたいに感じるの」
 伝承に定められた、何の刺激もない道を歩いていくだけ。そんなふうに人生を犠牲にするくらいなら、道端を歩く犬か猫に生まれた方が、よっぽど楽しいに違いない。
『それならば、お前はどうしたいと言うのだ?』
 試すようにドラゴンが訊く。その口調は、何処か楽しんでいるようでもあった。
「…とにかく、何処か遠くへ行ってしまいたい。何にも縛られない場所で、精一杯生きるの。それは、確かに、これ以上悪くなるだけかも知れない。だけど、これ以上良くなる可能性もあるって信じて、精一杯生きるの。そうやって、自分が生き物だってこと、実感したいの」
 話すうちに、不思議とアリルも笑顔になっていく。
『それならば、俺も協力しようか』
「え?」
『夜が明ける。旅立ちには、ちょうどいい雰囲気だな』
 ドラゴンは、お辞儀をするように身をかがめた。
『乗れ。お前の望みを叶えてやる』
「何処へ行くの?」
『絵本の中にない世界へ、だ』
 ドラゴンの答えにアリルは驚くが、同時に満面の笑みを浮かべる。パイロットを待つ生きた乗り物に、アリルは喜んで飛び乗った。
 ドラゴンもアリルもいない巣穴を見て、王子はどうするだろう。誰と結婚することになるのだろう。自分はどうなるのだろう。アリルを知る誰かが、笑顔でドラゴンに乗っているアリルを見たらどう思うだろう。そして、生きて帰ってきた夫を見たドラゴンの妻はどう思うだろう――
 不安よりも大きな期待が、次々胸に押し寄せる。
 アリルとドラゴンの奇妙な影が、朝日に浮かび上がった。
 頬にあたる風を感じながら、アリルは確かに今、生きていた。


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