戦場にて


 戦いは、いつだって厳しいものだ。重い鎧に身を包まなければならないし、長い槍を持って馬に乗り、戦場を駆けまわらなければならない。
それに、いつだって傍らに死への道がある。少し気を抜いていた戦友が、ふと振り返った次の瞬間に、首から上をなくしていることだって珍しくはない。
けれども俺は、今日も戦場を駆ける。
――主人への忠誠心のために。

   

夕日が沈もうとしていた。戦場となった平原に吹き付けるひやりとした風が、夜の匂いを運んでくる。俺は荒い息を吐いて、足元に横たわる敵軍の騎士を見下ろした。
騎士になって、もう十年ほど経っていた。 最初のうちは敵と分かっていてもなかなか手を下す事ができずにいたが、今の俺は躊躇いなく、武器を振り下ろして人の命を奪う事ができた。
慣れたのではない。人の命を軽んじるようになったのでもない。変わったのは、自分の心だけだ。
 俺の主人は、王と比べたらずっと小さな、けれども一般人から見れば見上げるほど大きな城を持つ、領主だった。俺の亡き父もかつてはその領主に仕えていた。
領主は、騎士を従える者としては稀に見るくらいに人柄のいい人だった。騎士になることを拒んでいた俺が、今は自ら進んでお仕えしたい、と思えるくらいに。 そのために避けることのできない人殺しなら、俺は迷わないと決めたのだ。 きっと城に帰ったら、他の軍の主人の何倍も騎士たちの身を案じ、たっぷりと褒美を取らせてくれることだろう。
夕日がすっかり沈んでしまった。 そろそろ帰ろうときびすを返しかけた俺の肩を、ぽん、と叩く者がいた。
「ジャン?」
「大当たり。今回も生き延びたぜ、俺は!」
振り返ると、俺と同じ鎧に身を包んだ騎士が、兜だけを脱いで、勝ち誇ったように笑っている。
ジャンは十年前、俺と同じ時期に騎士になった戦友だった。歳も同じ所為か、俺にとっては一番の親友でもある。
「さ、帰ろうぜ。飯が待ってる!」
ジャンは元気よくそう言うなり、自分の馬に飛び乗った。あまりにも子供っぽい動作に、俺は苦笑する。
「夜になって闇討ちに遭うかも知れないのに、随分と陽気だな」
もし闇討ちに遭わずに済んだとしても、明日もその次も、相手に勝つか負けるかするまでは、戦乱の日々が続くのだ。 どうしてジャンがこんなに陽気でいられるのか、わからなかった。
「そっか。…お前はまだ、ここに残るんだな」
 ジャンは陽気な笑顔を崩さぬまま、少し肩をすくめた。
「お前は、だって? ジャンは残らないのか?」
「ああ。今回の契約は今日までなんだ」
俺たち騎士と主人の間には、常に個別に契約が結ばれていた。 だから、たとえ戦乱が明日も明後日も続きそうだとしても、契約によって今日まで戦えば良い、ということになっていればそれ以上のことをする義務はない。
 そうと分かっていても、俺にとって、ジャンが今日で契約切れだというのは驚くべきことだった。 ジャンは身内が多い。全員を食べさせるために、いつもはできるだけ長い期間戦乱に参加できるように契約を結んでいるからだ。
「何かあったのか?」
「まぁ、いろいろと」
 ジャンは、それ以上のことを語ろうとはしなかった。


 闇討ちはなかった。
 次の日目覚めると、もうジャンの姿はなかった。俺は粗末な食事を胃に詰め込み、防具を一式身につける。
 戦いは随分と長引いていて、もう、今日か明日には終わるのではないかと噂されていた。 だからこそ、生き延びてやろう、勝ってやろう、という気持ちになる。
 馬に乗り、仲間と共に出陣した。今日は雨が降っていて、足場が悪い。 馬が滑ってぐらりと揺れる度、俺はひやっとした。何せ、これだけ重い鎧を身につけているのだ。一度馬から落ちてしまうと、体勢を立て直すことは難しい。 藻掻いているうちに敵に見つかってあっさりやられる仲間を、俺は何人も見ていた。
 少し馬を走らせると、十字架を彫り込んだ鎧を着た集団が、目の前に現れた。 敵軍だ。俺たちと敵軍はすぐに入り乱れ、瞬時に激しい戦闘が始まる。
 俺は馬を走らせ、敵の鎧が見えればすぐに、槍を振るって馬から突き落とした。 落ちた兵士を仕留めるのは短剣を持った歩兵に任せることにして、俺は次々に敵を薙いでいく。 雨で視界が悪く、俺は何度も、間違って味方を薙ぎ払いそうになった。
 敵も味方も、少しずつ数を減らしていく。 それは痛ましいことだったが、皮肉にも、視界はそれに反比例して良くなっていった。 そうなって初めて、俺は自分が味方の軍から外れ、孤立していたことに気が付く。
 慌てて戻ろうとしたその時、目の前にぐんと槍が突き出され、俺の槍を振り落とした。はっと顔を上げる――敵だ。 相手も俺と同じく一人だったのが救いだが、すぐにでも俺を突き落とすことができそうなその槍の所為で、俺は身動きが取れなかった。 ここで死を覚悟すべきなのかも知れない。
 相手は、何故か動かなかった。もしかしたらまだ新米の兵士なのかも知れない。俺も昔は、人を殺すのを躊躇ってばかりいたから。
 だが、それが間違いだということに、俺は気付くことになる。
「ジェスール」
 相手の口から紡がれた言葉に、俺は全身が凍り付いた気がした。ジェスール――それは、敵の騎士が知るはずもない、俺の名前だった。
「ジャン…?」
 まさか、と思いながらも昨日軍を去った親友の名を呼ぶ。表情は冷たい鎧に隠されていたが、相手はゆっくりと頷いた。
 騎士の仕事は決して奴隷労働ではない。自らやめることもできた。主人を選ぶこともできた。 望むならば、複数の主人に仕えることさえも可能だった――それがたとえ、自分が仕える主人の敵であっても。
 俺は、ジャンが俺と同じ主人の他に、敵の主人と契約を結んだのだということを悟った。
「どうして裏切った!?」  
「裏切ってなんかない。二人の主人に、同じく忠誠を誓っている」
 ジャンの声は、今までに聞いたことのないくらい、冷たい響きを持っていた。
「金を手に入れるには、こうするしかなくてね」
 俺は、言葉を失った。長い沈黙の中、味方の悲鳴だけが嫌に耳に届いてくる。 もしかしたら、こちらの戦闘作戦をジャンが流したのかも知れない。それだけの手柄を立てれば、こちらの軍にいては叶わないほどの収入を得ることも可能だろうから。
「いつまでもこうしているわけにはいかないな」
 ジャンの槍が動き出す。ナイフのように鋭い殺気が伝わってきて、俺は身震いした。殺されそうになったことは初めてではない。だから、いつもならばこんな恐怖は感じない。
 だが、今俺を殺そうとしているのは親友だ。昨日までは同じ主人を慕い、共に戦場を駆け抜けた、気の許せる数少ない相手だ。

 戦場は、容赦なく穢す。
 友情、忠誠心――すなわち人の心を。
 
 俺はいつの間にか、ジャンの槍を奪っていた。何かに取り憑かれたように体が動き、奪った槍で、ジャンを突き落とした。
 俺が孤立していたことに気が付いた味方がすぐさま駆け寄り、ジャンに短剣を振るう。それがとどめになったことは、確かめるまでもなかった。

 ジャンのその寂しい死に様は、一生俺の脳裏に焼き付いて離れないだろう。


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