ある旅人の話


 その旅人が私の街にやって来たのは、一年前のことだった。
 
 周辺国の商人たちの貿易の要所となっている私の街では、本来ならば旅人など珍しくも何ともなかった。それぞれの国の特産品を持って売り歩く異民族などいくらでもいたから、幼少の頃から見慣れていたのだ。そんな旅人たちの姿など、いちいち頭に刻みつけていたらそのうちパンクしてしまう。

 けれど、その旅人だけは違った。
 すなわち、私がその存在を頭に刻みつけておくだけの価値を、その旅人だけは持っていた。

 その旅人は、商人ではなかった。
 商人が魚や肉を売りさばく側で、常に両手に竪琴を抱えていたのがその旅人だった。
 旅人は誰に頼まれるでもなく、賑やかな商店街の片隅で、いつも唐突に歌を歌い始めた。曲は毎回同じで、優しさと切なさとを半分ずつ含んだ旋律の、私の知らない国の言葉で紡がれる曲だ。
 騒がしい商店街の中にはあまりに似合わないその旅人の存在を、最初、人々は気味悪がった。私もその一人であったが、誰よりも先にその旅人の歌に惚れ込んだ私は、ある日、勇気を出して彼に話しかけた。

 ――この先に、噴水がある広場があるんです。そこで歌ったらどうですか?

 旅人は目を丸くして私を見て、それからにっこりと、柔らかく微笑んだ。

 ――ありがとう。

 それ以上は何も言わず、旅人はその日から、広場の噴水に腰掛けて歌を歌うようになった。
 数ヶ月もすると、旅人を不気味がっていた人々も、旅人の歌を聴きに広場に通うようになった。
 いつも同じ時間。いつも同じ曲。そして、歌が終わった後にはいつも同じ言葉。

 ――ありがとう。

 名前を訊ねられても答えず、ただ、優しく笑うだけ。
 富豪に雇ってやると言われても、困ったように肩を竦(すく)めるだけ。
客がくれるお金だって、受け取ったうちの半分は貧民街で配ってしまう。自分だって、決して生活に困っていないとは言えない姿をしているのに。

 だけどそんな旅人の許に通う客足は、いつになっても絶えなかった。

 旅人は、幸せそうだった。
 私たちも、幸せだった。
 ――誰もが、その幸せが続いていくことを願った。

 …それなのに。

 ある日の夕暮れ、いつものように歌を終えた旅人は、いつものように頭を下げて、お礼を言った。

 ――ありがとう。

 その後に、続けて言った。

 ――宝物が、たくさん出来ました。この街に来て、本当に良かった。

 不思議な旅人の言葉に、私たちは首を傾げた。
 旅人はそれ以上は何も言わずに、竪琴を抱えて、夕闇の中に姿を消した。
 そして、もう二度と、歌を聴かせてはくれなかった。

 旅人は後日、街の中を流れる川の中で、亡骸として発見された。 誰かに殺される理由は考えられず、街の人たちは、自殺したものとして片付けた。献身的に生きるあまり、貧しい身の上に嫌気がさしたのだろう、と誰もが納得できそうな理由をこじつけて。


 真実は分からない。
 だけど。
 旅人は幸せを天国に持っていこうとしたのだろう、と私は思う。

幸せを失って、涙を流す前に。
 幸せを自分の命と共に取っておこうとしたのだろう、と私は思う。

 だって――
 旅人は、あんなに感謝していたのだから。


小説一覧に戻る