我が国は永遠に


「ジェシカ様、お覚悟を」
 喉元に刃物を突きつけられたジェシカは、悲鳴をあげたいのをこらえて、その先に立つ男を見据えた。隣国・ハヴォックの兵士である。
「貴女のお父上も愚かでしたね。素直に我が国に協力すれば、命を落とさずに済んだ。罪のない民たちも、血を流さずに済んだでしょうに」
 男の後ろには、王であるジェシカの父が、物言わぬ死体となって横たわっている。王妃も殺され、今この瞬間、リファ国の王族はジェシカだけになっていた。
「私を殺すのですか…?」
「いえ、命を取ろうとは言いませんよ。貴女が我がハヴォック国の味方に付いてくれるのならば。 何せ、リファの医療技術は素晴らしい。我が国とレメン国との戦争も、貴女の国の協力があればとても有利になる」
「リファは永世中立国です。貴方も存じているはず」
「それでは、協力しないと? 貴女の命が、この人民の命が、奪われても構わないと?」
 刃物の切っ先が、軽く喉に触れる。震えを抑え、平静を装って、ジェシカは言った。
「何故、民の命を奪おうと言うのです? 道は、ご自由にお使いいただいて結構です。ですから、これ以上――」
「そうはいきませんよ。貴女にレメン側に付かれたら困ります。協力するか、皆殺しにされるか、どちらかです」
 ジェシカは黙り込む。男は意地悪く笑い、やがて刃物を下ろした。
「一日だけ、考えるお時間を差し上げましょう。今この瞬間から、二十四時間。 そうしたらまた、この城に出向いて貴女の答えを聞くとしましょう。言っておきますが、レメンに助けを求めたら、この約束はなかったことになりますよ。 こちらには、すぐにでもリファを破壊する準備が整っているのですから」
 
 ハヴォックの兵士が城を去ると、外から人民のざわめきが聞こえてきた。
 ――一体どうして俺達の国が攻撃されるんだ!?
 ――王様、出てきてください!
 ジェシカは力無く膝を着き、放心状態で人民の悲鳴を聞く。やがて空っぽの心に、凄まじい焦りが沸き上がってきた。
 悲劇の始まりは、一週間前のことだった。 小国リファを挟んで位置するハヴォック国とレメン国の戦争が激化してきたため、ハヴォックの兵士が、レメンに向かう道を通らせて欲しいと申し出てきたのだ。
 確かにリファを通れば、ハヴォックの兵士は最短距離でレメンに向かうことが出来る。 しかし中立国であるリファは、それが自国を戦争の危険にさらす可能性があるとして、断ったのである。
 それからハヴォックは諦めたように思えた。しかし、昨日の夜、ハヴォックは突然リファに攻め込んできた。 リファにそれを守りきれるだけの戦力はなく、陽が昇ってまもなく、リファは国王を失う事態に陥ってしまったのだ。
 何故、道一本のためにここまで酷いことをされなければならないのだろう?
 リファには戦争の歴史がない。国としては小さすぎるし、土地が森ばかりのリファを相手にするような者は今までいなかった。 それに何より争いを好まない民族だったのだ。しかし今、その何百年も守られてきた歴史が壊れようとしている。 しかも選択肢は、国が壊滅するか戦争に参加するかのどちらかだ。どちらを選んでも、平和だった『リファ』の名は消滅する。
「ジェシカ様!」
 絶望に沈んでいたジェシカは、その声にはっと顔を上げた。
「メロ!」
「ジェシカ様、ご無事で!」
 ジェシカよりも三つ上の二十一歳であるメロは、十六の時からこの城に仕える小間使いだった。ジェシカにとっては最も親しい、姉のような存在である。
 駆け寄ってきたメロの背中に両腕を回すと、ジェシカの胸にささやかな安堵感が生まれた。
「他の者は?」
「分かりません…。城の外に逃げた者もいるはずです。私は洋服箪笥だんすの中に隠れていました。 王様たちはどうされました?」
 ジェシカはうつむき、黙って床に倒れる父を指し示した。メロが息を呑む音。
「王様…」
 メロはそっと膝を折り、冥福の祈りを捧げる。何があっても取り乱さない――それが、ジェシカがメロを心から信頼している理由の一つでもあった。
「メロ、ハヴォックの兵士が来たわ。二十四時間以内に、ハヴォックに協力するか、国を破壊されるか決断しろと。ねぇ、メロ、どうすればいいと思う?」
 メロはじっとジェシカの瞳を覗き込んだ。
「もう答えは決まっておいでなのでしょう? 私に訊いても仕方ありませんわ」
 図星だった。ハヴォックの兵士に問われた瞬間から、答えが決まっていたのは確かだ。
「でもね、私、確かめたかったの。本当にこれでいいのかって。だって、みんな死んでしまうでしょう? 生き残れるなら、戦争に協力したって…」
「お忘れですか? ハヴォックの兵士をこの国に入れさせないと、そう決めたのは王でも王妃でもなく、この国の民だということを」
 メロは白い手袋に包まれた温かい腕をジェシカの肩に置いた。メロの微笑み。不安を溶かしてくれる、唯一の魔法。
「さあ、城の外に出ましょう、ジェシカ様」
「ありがとう、メロ」
 ジェシカはもう一度、メロの背に手を回した。


 ――あと一日もしないうちに、この国はハヴォックの手によって破壊される。
 ジェシカが城の門の前で宣言すると、人民はそれを静寂をもって受け入れた。 この国は何があろうと戦わないのだ、という人民の意志の堅さに安心すると同時に、ジェシカはどうしようもない寂しさを覚える。
 それはこの国の長い歴史が、いよいよ消えてなくなるということだから。


 夜が来た。この闇の帳が晴れたとき、待っているのは朝日ではなく、陽よりも赤い血の海なのだろう。 冷たい風の吹く城のベランダで、ジェシカはいつになく賑やかな城下町を見下ろしていた。
「 ジェシカ様。そろそろ部屋にお戻りにならないと、風邪をひいてしまいますよ」
「風邪をひこうと構わないわ。どうせ、死んでしまうのだから」
「そんなふうに考えるのはよくありません」
 メロがジェシカの隣に並ぶ。最期の日だというのに、メロはいつもと同じエプロン姿だった。少しくらい好きに飾り立てればいいのに。 飽くまで普段通りでいるというのが、彼女のポリシーらしい。
「人民たちの様子はどうですか?」
「とっても賑やかだわ。今までの罪を許し合って、みんな笑顔。明日が来ないなんて、思っていないみたいに。でも…」
 ジェシカは、メロに目をやる。微笑んで、ジェシカの言葉の続きを待っているメロ。その姿がもう見られなくなると思うと、苦しくて仕方なかった。
「時々ね、泣き叫ぶ声も聞こえてくるの。リファがこれで終わるなんて、嫌だって。 ――ねぇ、どうしてみんな、滅ぶしかないの? どうしてこの世に、『永遠』ってものは存在しないのかな?  リファの長い歴史、ここで終わって、忘れ去られて……滅ぶのが前提なのに、どうして神様は創造するのかな?」
 メロは微笑みを崩さぬまま、ジェシカの瞳に薄く浮かんだ涙を柔らかなハンカチで拭いてくれた。
「リファは永遠です。リファだけでなく、全てのものは永遠です」
「どうして?」
「だって、私たちは今、確かにここに存在しているじゃないですか。 リファや、私たちの肉体が滅びても、こうして築いてきたリファや私たちの歴史は、誰にも消すことが出来ません。 生きている者に忘れ去られても、私たちが覚えていればそれでいいのです。一度刻まれた私たちの歴史は、誰にも変えられない永遠のものなのです」
「永遠…」
 その言葉の意味を、噛みしめる。メロや両親と過ごした時は、もうすっかり刻まれてしまって、どんなに強い風が吹いても消されることはない。 この国に生きる、誰の歴史でもそうだ。今こうして存在しているいくつもの命の歴史は、いつまでもいつまでも残り続ける――
「ありがとう、メロ」
 ジェシカの顔に、笑みが戻ってくる。
「我が国は、永遠に」
 ジェシカの言葉に、メロは嬉しそうに頷いた。


 夜が明け、殺戮の波がリファを襲う。
「もう逃げられませんよ、ジェシカ様!」
 ハヴォックの兵士の、鋭い眼差し。しかしその先のジェシカに、絶望の色はない。
 兵士は不審に思い、ジェシカの胸に刃を突き立てる前に、一つだけ訊ねた。
「何故、笑っていられるのですか?」
 ジェシカは最期の笑みを浮かべ、はっきりと答える。
「リファは滅びませんから。我が国は、永遠に」


小説一覧に戻る